仲間町(近世〜近代)


江戸期~昭和41年の町名中間町とも書く明治22年頃一時期米沢を冠称江戸期は米沢城下のうちで侍町の1つ明治22年からは米沢市の町名米沢城下の北西部に位置する「米府鹿子」には「お仲間町」と見える町名は藩に仕えた御仲間が居住したことに由来する(旧米沢市町名の由来)享保10年の城下絵図では中間町東町,同年の御城下屋敷数書上帳(県史16)には中間町東ノ町と見える同帳によれば,長さ2町59間・道幅5間,家数16軒なお同帳には七ツ蔵町長さ1町19間・道幅6間,家数3軒と見えるが,明治期以降の七ツ庫の前身と思われ,寛永年間まで藩の籾倉が7棟あったという文化8年の城下絵図にも七ツ蔵町が見え,御国産所御用屋敷もあった明治11年の一覧全図では,反別3町8反余,戸数30・人口142明治34年七ツ庫繰撚工場が創建開業する昭和7年地内の七ツ庫を桂町に編入昭和41年城北1丁目,丸の内2丁目・松が岬【まつがさき】3丁目の各一部となる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7263724 |