小鶴荘(中世)


平安末期~室町期に見える荘園名常陸国のうち平安後期に,「和名抄」の茨城郡嶋田郷・安侯郷・石間郷をはじめ涸沼【ひぬま】川の流域を広く含む地域は,茨城郡と分かれて小鶴荘として荘園化した治承4年5月11日の皇嘉門院譲状に「ひたち こつるきた みなみ」と見え,この頃には南北に分立している(九条家文書/平遺3913)康永3年12月27日の足利直義裁許下知状によると,聖徳太子御廟料所として九条家が管領したといわれ(九条家文書),このうち小鶴南荘は,元久元年4月23日,九条兼実より宜秋門院任子に譲与され(九条家文書/鎌遺1448),建長2年11月日,九条道家はこれを忠家に譲与している(九条家文書)建武3年8月24日の左大将(九条道教)家政所注進当知行地目録案にも,「小靍南庄〈領家職〉」と見え,南荘領家職は,鎌倉期を通じて九条家に相伝された一方,小鶴北荘は,兼実より良通室の御堂御前に譲与され(九条家文書),以後,おそらく南荘とは別個に伝領されたものと思われる弘安田文に,「小靍庄四百丁」と見え(税所文書/県史料中世Ⅰ),嘉元田文にも同数値で記載(所三男氏所蔵文書)建長2年11月の九条道家初度惣処分状に,「常陸国小鶴南庄〈地頭請所〉」と見え,地頭請所となっていた(九条家文書)この地頭は,当荘域が室町期に小田一族宍戸氏の所領の私称といわれる宍戸荘の地域にほぼ重なることから(新編常陸),宍戸氏と考えられる康永3年12月27日の足利直義裁許下知状によると,九条家は,「地頭知連乍号私請所,年々抑留無謂,可糺返」と,南荘における地頭宍戸知連の年貢対捍を幕府に訴えており(九条家文書),宍戸氏の荘園侵略(押領)が進行しているこののち九条家と南荘のかかわりを示す史料を見出せず,南北朝期に九条家領としての実体は失われたのであろう南北朝期・室町期の常陸国切手郷切手員数注文に「小鶴庄 一通」と見え(税所文書/県史料中世Ⅱ),行方【なめがた】郡玉造天竜院の鐘銘に「常州小鶴庄□沼,□□堂天王宮鐘……応永丁丑(4)年八月十二日」とあり(小鶴庄記/小沼氏所蔵文書),また応永33年10月日の烟田幹胤申状には「小鶴修理亮」の名が見える(烟田文書)応永3年12月27日の足利義満寄進状に,「寄附 円覚寺正続院,常陸国小鶴庄事」とあり,当荘は円覚寺正続院に寄進され,応永21年12月15日,管領細川満元は,正続院の訴えにより,押領人を退けて寺家に下地を打渡させている(円覚寺文書/神奈川県史)こののち永享7年8月9日の常陸国冨有仁注文写に「宍戸庄内……一小靍郷 金道上野房 竜崎右京亮知行」と見えるように(続常陸遺文),小鶴の地名は,荘内の郷名に残り,旧荘域は宍戸荘に含まれてしまう現在の八郷町東成井,岩間町,笠間市手越,友部町,茨城町西部に比定される

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7273621 |