中郡荘(中世)


平安末期~戦国期に見える荘園名常陸国のうち「吉記」承安4年3月14日条に「蓮花王院領中郡庄」,「吾妻鏡」文治4年6月4日条所収の後白河法皇院宣に「同(蓮華王院)領常陸国中郡庄」と見え,蓮華王院領新治郡の中央に位置することから「中郡」とよばれたこの地域が荘園化したのは,荘名からすると,新治郡が東・中・西の3郡に分立した以後であり,蓮華王院が創建された長寛2年頃か荘内には,犬田郷・鴨部郷・鹿島社領磯部郷などの郷名が見える中郡荘の下司で中郡氏を称する経高は,承安4年3月から9月にかけて乱行問題で国司庁宣によって京に召換され,平教盛に預けられている(吉記)経高の孫たちは源頼朝の御家人となり(「吾妻鏡」建久元年11月7日条など),同荘の地頭職を得るが,貞永年間,経高の曽孫にあたる重経以下中郡一族は,荘の預所と相論し,悪口の咎で地頭職を没収された(大中臣氏略系図)弘長元年,荘内鹿島社領磯部郷半分預所職を継母(磯部禰宜高重後家)が押領しているという高重嫡女の訴えにより,子細を注進すべきことを命じた関東御教書が秋田城介(安達泰盛)に発給され(鹿島神宮文書/鎌遺8751),文永5年にも,高重遺領に関する高重嫡子土用王の重訴状に対する答弁書の提出を高重後家に命じた安達泰盛奉書などが存在し(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ),また「沙石集」に「文永ノ比」の中郡の「地頭家城ノ介」と記されていることから(古典大系),その跡は安達に与えられ,弘安8年,霜月騒動により安達氏が滅亡したのちは,北条氏一族の所領となったものと思われる弘安田文に,「中郡庄 三百八十二丁六段小」と見えるが(税所文書/県史料中世Ⅰ),嘉元田文では「中郡庄 二百八十三丁一反小」とある(所三男氏所蔵文書)建武3年10月28日の斯波家長奉書に「常陸国中郡庄事……自将軍家被仰下之程,所被預置也」と見え,中郡荘は,小山氏の軍忠により小山大後家(貞朝後室か)に預け置かれ,小山氏の支配するところとなったが(松平基則氏所蔵文書/小山市史),延元4年4月12日北畠親房の家司沙弥宗心から結城親朝充の書状写に「春日羽林此間欲責中郡城候,次第ニ可有沙汰候也」と見え(結城古文書写/神奈川県史),この年常陸に入国した春日顕国によって,中郡城(岩瀬町西小塙)は攻略され,顕国の甥にあたる常陸中将源信世が入城したという一方,幕府は暦応4年(興国2年),「常陸国中郡庄鴨部郷漆分壱」を「兵粮料所」として佐竹弥次郎に充行い(諸家文書/大日料6-6),また高師冬の出陣などにより,中郡城は同年12月には南朝方諸城との連絡を遮断され(結城古文書写/大日料6-6),康永2年落城した(新編常陸)貞治5年には中郡荘に役夫工米が賦課され,賀茂社(岩瀬町加茂部)の社司から訴訟が起こされている(彰考館採集古文書/大日料6-27)貞治2年の足利義詮御判御教書に「仁木兵部大輔義尹所領常陸国中郡庄事」と見え,このころ仁木義尹の所領となっていた中郡荘に対する結城直光の押領を停止するよう命じている(上杉家文書/結城市史)応永27年10月4日,幕府は「中郡惣代官」の大田五郎左衛門入道と訓公首座に対し,「支証等明鏡」たるにより「鎌倉法華堂領中郡内犬田郷」を法華堂の代官に去渡すことを命じている(法華堂文書/神奈川県史)南北町期から室町期にかけての当荘は,磯部南方打渡しに関する年未詳の鹿島社大禰宜家あての中郡代官沙弥通積書状に,「京都御料所とも成,関東御支配候へ共,当庄之事ハ内裏御料所と申,于今無相違候」と見え(塙不二丸氏所蔵文書/県史料中世Ⅰ),また文明末年のものと推測される諸国御料所方支証目録に「常陸国中郡庄」と見えるように(内閣文庫所蔵文書/和歌山市史),皇室や室町幕府の直轄領であった永享12年には鎌倉公方足利持氏の遺児安王丸・春王丸が「常州中郡庄木所城」(岩瀬町富谷)で挙兵し結城合戦が起こる(諸家文書纂/結城市史)戦国期は小田氏の支配下にあり,小田政治は,「為桑山(南野荘惣社)造栄(営),中郡之庄勧進之事,㝡可然候」と日輪寺(つくば市金田)に申し送り(日輪寺文書/県史料中世Ⅰ),その子氏治は,天文18年10月7日,「中郡庄之内福田郷」を古尾谷広四郎に充行っている(古尾谷掃部右衛門文書/家蔵文書)これ以降「中郡荘」の地名は見えず,「中郡」あるいは「西中郡」と称するようになる一方,坂戸城(岩瀬町西飯岡)周辺は宇都宮氏領であり,家臣小宅尚時が居城していた(小宅三衛門先祖書/常陸遺文)弘治2年,結城正勝は「小田領中郡四十二郷」を奪取し(結城家之記/結城市史),同年11月9日,坂戸郷・冨屋郷など「西中郡之内」で2貫文を高橋神社(栃木県小山市)に寄進している(高橋神社文書/結城市史)こうして中郡は,同年制定された結城氏新法度の荷留規定(74条)に,「山川・下たて・下妻,惣別此方成敗中くん・をくり其外之ものならば……にもつ・馬計をさへへし」と見えるように(松平基則氏所蔵文書/結城市史),山川以下の国人領とは峻別された結城支城領として位置づけられたこののち冨屋城周辺を除く地域は再び小田氏の所領となり,坂戸城には,小田家臣信太頼範が入城したが,永禄7年,小宅尚時が再び城を奪還し,その子高春は,慶長2年,宇都宮氏の没落まで居城した(新編常陸)一方,結城晴朝は,永禄3年,結城籠城のため冨屋城兵も撤兵させるが(結城家之記/結城市史),のち重臣多賀谷壱岐守が居城した(毛利家文書/結城市史)文禄3年の太閤検地を機に那珂郡(西那珂郡)となるなお,江戸期においても旧荘域は中郡とよばれたという(新編常陸)現在の岩瀬町の大部分と協和町・大和村の一部に比定される

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7275438 |