北郡(中世)


平安末期~戦国期に見える常陸国の郡名律令制下の茨城郡のうち,平安末期には北東部が小鶴荘,南西部が南野荘として荘園化し,残りの地域も二分されて南郡・北郡となった弘安田文には河俟(俣)・大多良・柿岡・菅間・上曽・田子共・瓦屋・吉生・大増尾・大田・小瓦・高倉・片岡・金差・林・宇治会・村上・片野・沼田・青田・横山尻・小幡,以上総田数272町4反60歩が記載され(税所文書/県史料中世Ⅰ),現在の東成井を除く八郷町の大部分と千代田町の一部にあたるなお,弘安田文には「加納二十丁」も北郡のうちとして記載されているが,北郡には含まれない嘉元田文でも,各地名の田数,総田数ともに変化はない(所三男氏所蔵文書)このうち「宇治会十八丁三段」と見える宇治会保は,元久2年12月日の道清・宗清連署処分状案に「処分 相伝所領庄園并田畠等事……一,常陸国 宇治会保」と見え,平安末期には石清水八幡宮領として成立していた(石清水文書/鎌遺1594)平安末期,北郡地頭職は常陸大掾多気義幹が保有していたと思われるが,建久4年4月22日鎌倉幕府は義幹の「常陸国筑波郡・南郡・北郡等領所」を没収し,これらの所領を一族の馬場資幹に与えたという(吾妻鏡)しかし建久以後,当郡内に八田氏の庶子が土着していることから,建久4年に当郡の地頭職を与えられたのは八田知家で,「吾妻鏡」の記事は義幹の失脚により大掾職が資幹に与えられたことを示すと思われるこののち,文保3年□月20日の常陸国総社造営役所地頭等請文目録によれば,河俣郷は藤原家貞,小幡郷・菅間郷は藤原氏女,上曽郷は八田(小田)氏の庶子上曽三郎がそれぞれ地頭であった(常陸国総社宮文書/県史料中世Ⅰ)鎌倉後期,北郡地頭職は北条氏一門金沢氏一族の南殿のものとなった年月日未詳の金沢貞顕書状によれば,郡内統治機関である「北郡政所」も金沢氏の管轄下にあった(金沢文庫文書)このうち,当郡内の一部が金沢氏から武蔵国金沢称名寺に寄進されるこの称名寺領は元亨元年6月22日の鎌倉将軍家寄進状案に「北郡ハ三所ニ五十余丁ニテ候」と見え,当郡内の称名寺領は50町程度であり,金沢氏が郡地頭であった時期に郡内の3郷または3村が称名寺に寄進されて成立した寺領と思われるその年貢については,14世紀初頭のものと推定される称名寺々用配分置文に「南殿御分」として「北郡〈米六石,銭十一貫五百文〉」と見える(同前)その後,元亨元年6月22日鎌倉幕府が金沢称名寺に対して従来の寺領「常陸国北郡内寄進地之替」として,「小笠原彦二郎入道道円知行分」「東六郎盛義所領参分壱」を与えた(同前)元弘3年~建武2年頃と思われる足利尊氏・同直義所領目録に「同(常陸)国北郡〈大方褝尼〉」と見え(比志島文書/神奈川県史),「大方褝尼」とは北条貞時の夫人で北条高時の母である安達氏と思われる先に称名寺が寺領である「常陸国北郡内寄進地」が替地を命ぜられた頃,北郡地頭職が金沢一族から安達氏にかわったものとみられ,さらに建武新政の際足利氏に与えられたと思われる南北朝期以降も当郡内では小田氏の一族が勢力を保ち続けたものと考えられる嘉慶2年6月日の高麗清義軍忠状写に「八月十七日志筑御陣,同十九日山崎御陣」とあり,小山若犬丸の乱に荷担した小田氏討伐のため男体山(難台山)に発向した高麗清義がその途次郡内の山崎に陣所を置いた(武州文書)小田氏は一時所領を没収された室町期,永享6年8月7日の役夫工米大使一志文世安堵状によれば,北郡内の上曽郷・吉生郷・柿岡郷・治田郷・高倉郷・河俣郷の6郷は税所氏が領掌する切手郷(公田)であった(税所文書/県史料中世Ⅱ)年月日未詳の常陸国切手郷切手員数注文には「北郡 十五」と見え,室町期にも当郡内に公田15郷が存在している(同前)また,文安3年2月18日の某憲景譲状によれば,憲景は子息がなかったため,縁者の臼田勘解由左衛門尉子息藤四郎政重に「常陸国北郡大増郷,同〈うらへの村・なかとの村〉」を譲与している(臼田文書/県史料中世Ⅰ)戦国期には当郡をめぐって小田氏と佐竹氏の抗争が繰り返される柿岡城には小田氏の一族柿岡氏が居城していたが,佐竹氏の南進の過程で佐竹氏に属し,永禄9年太田資正の子梶原政景が入城,天正元年太田資正・梶原政景父子が小田氏治の居城小田城を攻略すると,梶原政景は小田城に移り,真壁房幹が城主となった一方,片野城には小田氏の家臣八代将監が居城したが(新編常陸),佐竹氏の攻撃に敗れ,永禄9年には太田資正が入城した当郡は永禄年間以降は佐竹氏の支配下に置かれた文禄3年の太閤検地を機に新治【にいはり】郡に編入された

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7276546 |