氏家郡(中世)


鎌倉期~戦国期に見える郡名当郡は平安末期までに芳賀郡から分離したと推定される当郡は現在の氏家町・高根沢町,塩谷町南部,芳賀町・今市市の各一部が含まれる塩谷町佐貫の佐貫石仏の上部の小洞窟内から発見された建保5年2月3日の銅版曼荼羅背銘に「下野国氏家郡讃岐郷巌堀修造事,勧進沙門満阿弥陀仏,大檀那右兵衛尉橘公頼……金銅仏奉掘出畢」と見える(氏家町史)「右兵衛尉橘公頼」とは氏家氏の祖氏家公頼であり,公頼は満阿弥陀仏という僧の発願により,讃岐郷にある磨崖仏を修復したが,その際奥の院と称する崖上の洞穴から金銅仏を掘りあてたので,これにこの銘文を陰刻したことが知られる氏家氏は宇都宮氏の一族で,公頼は宇都宮朝綱の三男と伝えられている永正11年に記された「留守記旧記」には「鎌足大臣十番目子ニテ氏家一流,故ニ十郎とかうす,氏家庄ヲ為本所,故ニ氏家と云」と見える(水沢市史)なお,氏家荘は氏家郡の別称と思われる鎌倉期に当郡は氏家氏の支配下にあり,氏家氏は公頼―公信―経朝の3代にわたり鎌倉御家人となり,弓矢の射手として活躍している(吾妻鏡)文和2年正月日の古琵琶墨書銘に「下野国氏家郡美女木新熊野常住物也」(耽奇漫録/氏家町史),永徳2年の日光輪王寺鰐口銘に「氏家郡金屋郷」と見える(氏家町史)氏家氏は南北朝期に没落し,芳賀氏が氏家郡の領主となった長享3年4月10日の今宮神社棟札に「氏家郷今宮大明神御社壇,禰宜大夫宗保 大工大蔵丞宗久,御神主前下野守藤原朝臣成綱……清原朝臣綱高」と見え,宇都宮成綱と芳賀綱高が氏家郷の今宮神社を新たに造営している(栃木県庁採集文書/大日料8-27)今宮神社は宇都宮氏一族氏家氏の氏神で,氏家郡の総鎮守であった天文11年極月28日の今宮神社棟札にも「氏家郷今宮大明神御社壇御神主,藤原朝臣俊綱,芳賀駿河守清原高秀」と見え,天文11年にも宇都宮俊綱と芳賀高秀が今宮神社の造営にあたったことが知られる(氏家町史)戦国期に,当郡一帯は宇都宮氏の支配下に置かれた天文4年11月5(9か)日の宇都宮俊綱安堵状によれば,氏家郡内の栗嶋郷は室町期に宇都宮等綱が伊勢神宮に寄進,さらに戦国初期に宇都宮忠綱が改めて寄進したと思われ,以後宇都宮氏は代々栗嶋郷を伊勢神領として安堵している(内宮神官所持古文書・佐八文書/県史中世4・2)また,天文5年12月5日には芳賀高経が「氏家郡之内円勝寺」を成高寺に寄進している(寺社古状/県史中世3)江戸期にまとめられた「氏家宿古記録集」や「氏家記録伝」などによれば,氏家郷は24郷から成っていたという(氏家町史)この24郷は,玉生・船生・金枝・飯岡・上沢・泉・山田・大宮・風見・大久保・上平・肘内(以上塩谷町),氏家(氏家町),阿久津・関俣・文挟【ふばさみ】・土室・石末・柏崎・太田・平田・寺渡戸・栗ケ嶋(以上高根沢町),八ツ木(芳賀町),荊沢【おとろざわ】(今市市)と思われる「今宮祭記録」によれば,これらの郷村は,今宮神社の大祭にあたり,神事の頭役を勤仕したという(西導寺蔵/宇都宮市史,いまいち市史)氏家郡は近世初期に廃されたと思われ,郡域は塩谷郡に編入されたなお,元和6年の検地帳には「下野国氏家郡宇都宮領」などと見え,江戸期にも伝統的に郡名として使用されたようである

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7277886 |