中泉荘(中世)


鎌倉期~戦国期に見える荘園名都賀郡のうち平安末期に摂関家領荘園として立荘されたと考えられるが,成立年次は未詳栃木市の泉川・今泉,大平町の下皆川・牛久・富田・山田・榎本・西水代,岩舟町の和泉,小山【おやま】市の大川島,藤岡町の富吉などが荘域として確認されるから,栃木市の中央南部,大平町,小山市の西の一部,岩角町の東の一部,藤岡町の北の一部などを包含する東西約6km・南北約8kmほどの規模を持つ荘園なお,この地域が中泉荘とも西御【にしみ】荘とも記され,西水代郷が共通することから,西御荘は中泉荘の別称か,その一部分の称と考えられるなお,西御荘の表現があらわれるのは南北朝期以降であるまた,寛喜2年2月20日の小山朝政譲状に「中泉庄〈加納〉」(小山文書/県史中世1),年月日未詳の某書状断簡に「中泉本庄内今泉郷」(金沢文庫文書/県史中世3)などの記載から,中泉荘は本来の荘園が「加納」という形をとって周辺に発展をとげ,本荘・新荘の区別があったことをうかがわせる本荘今泉郷は栃木市内にあるところから,本荘部分は栃木市内を中心としていたと考えられる「吾妻鏡」文治4年3月17日条所収の源頼朝条々事書に「一,下野国中泉・中村・塩谷等庄事,件所々,雖不入没官注文候,為坂東之内,自然知行来候,年貢事子細同前」と見え,中泉荘は中村荘・塩谷荘とともに,治承・寿永内乱期に平家没官領ではないが源頼朝の知行下に入り,頼朝が当荘などを東大寺造営料所として寄進しようとしたが,当荘の本家が不明であったため,年貢の納入状況などについて上奏している(鎌遺317)これに対し,「吾妻鏡」文治4年4月12日条所収の同年3月28日の後白河法皇院宣により,当荘などは藤原基通の荘園であることが明らかとなった(鎌遺319)「吾妻鏡」文治4年6月4日条所収の同年5月2日の後白河法皇院宣にも「下野国中泉 中村 塩谷,相摸国早河庄事,已上三ケ所,同(前摂政)家領也」と見え,藤原基通領であることが確認され,頼朝と朝廷の交渉で基通に返還され,年貢の送進が約束されている(鎌遺327)建長5年10月21日の近衛家所領目録写に「下野国仲村庄〈仲泉・塩屋此内別郷也〉」と見え,当荘は藤原摂関家から鎌倉初期以降は近衛家に伝領された(近衛家文書/県史中世4)これ以前,「吾妻鏡」文治元年10月9日条によれば,頼朝は義経追討を命じた土佐房昌俊に中泉荘(地頭職か)を与えているまた,同書建暦元年7月11日条によれば,地頭と考えられる惟宗孝尚が,隠田をして年貢を対捍したという訴えが本所(摂関家か)から出され,一時その罪科で身柄を北条時房に預けられたが,調査の結果無実が判明して許されている中泉荘内の富吉東西郷は鎌倉後期には大見氏の所領であり,弘安6年4月5日大見行定は次男家政に富吉東西郷の地頭職を譲渡し(中条家文書/県史中世4),鎌倉幕府は弘安10年10月8日家政にこの地の地頭職を安堵している(大見水原文書/県史中世4)さらに,嘉元2年6月8日家政は富吉東西郷の地頭職を家貞に譲渡している(中条家文書/県史中世4)延元2年3月16日の後醍醐天皇綸旨写に「同(下野)国中泉庄〈二階堂下野入道・同下総入道等跡〉,為勲功賞,可令知行」と見え,鎌倉末期には二階堂氏が当荘の地頭であったと思われるが,南北朝期に入り,南朝は白河結城宗広に中泉荘を与えた(結城文書/県史中世3)結城宗広はこれ以前に当荘を充行われていたと思われ,延元元年4月2日宗広は孫の顕朝にこの地を譲渡し,さらに応安2年6月19日顕朝から満朝に,応永4年10月21日満朝から氏朝に譲渡されているが(楓軒文書纂/県史中世4),現実に支配が実現していたとは考えられないまた,延元3年9月5日北畠親房は,南朝方に応じた小山政景に勲功の賞として中泉荘泉川郷を充行っているが(光明寺旧記/県史中世4),翌延元4年には南朝の勢力が関東において著しく後退しており,政景が実際に泉川郷を知行したかどうかは未詳中泉荘加納は,寛喜2年2月20日の小山朝政譲状で,小山氏の相伝所領として孫の長村に譲渡されており(小山文書/県史中世1),また,観応2年8月25日中泉荘は兵粮料所として小山氏に預け置かれているから(松平基則氏所蔵文書/県史中世2),南北朝末期の小山義政の乱まで,中泉荘は小山氏の支配下にあったと思われる室町期,上杉禅秀の乱では応永24年5月27日禅秀の家人秋山十郎など6名が西御荘で下野守護結城基光に捕えられ,乱後,同年7月24日西御荘内の富田郷・下皆河郷などが,再興された小山氏(満泰)に与えられている(同前)しかし,享徳の乱の頃,古河公方足利成氏は一時那須資村に西御荘の地を与えている(那須文書/県史中世2)小山満泰の子持政は,当荘内榎本に大中寺を創建し,大中存孝と号した大中寺は曹洞宗の禅院として栄え,古河公方足利政氏から文亀2年10月21日に当荘内西水代郷を寄進された(大中寺文書/県史中世1)また,当荘内大河嶋郷の総大権現社は中泉荘の総社であり,享徳元年11月15日に小山持政は大河嶋郷内30貫文の地を寄進している(青木文書/県史中世1)さらに,明徳3年西牛久談所では聖教の書写が行われ,この談所は円通寺となり,享徳6年(長禄元年)にも「天台伝南岳心要抄」の書写が幸海という僧によって行われている(昭和現存天台書籍綜合目録上)

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7279956 |