山辺南郡(中世)


南北朝期に見える郡名上総国のうち南山辺郡とも見える鎌倉期の史料には所見がないが,「和名抄」山辺郡が南・北に分かれ,平安末期に中世的郡として成立したと推定される延元元年3月,春日部滝口左衛門尉重行は当郡地頭職を後醍醐天皇から安堵され(武州文書/大日料6-3),同年8月には重行の相継者(子息か)若法師に当郡および山辺北郡等の地頭職が安堵されている(上杉文書/県史料県外)また応安8年の市原八幡宮造営に際し,当郡や山辺北郡・武射【むさ】南・北郡は国衙領として,国役のうち同宮左右六所宮2宇を負担したことが見える(三宝院文書/同前)なお,現在の長南町報恩寺所蔵の永徳元年12月の鰐口銘には「南山辺郡」と見える(県史料金石1)

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7297396 |



