飯島?(中世)

鎌倉期~南北朝期に見える地名相模国鎌倉郡のうち「吾妻鏡」寿永元年11月10日条に「伏見冠者広綱飯嶋家」と見え,当地の伏見広綱の家に源頼朝の寵女亀前がいることが北条政子に知られ,政子は牧宗親に命じて広綱の家を破却させた同書承元3年5月28日条には「西浜〈号之飯島〉辺騒動」とあり,当地が西浜ともいわれていたことがわかるこの騒動とは,土屋宗遠が,かねて恨みを抱いていた梶原家茂を小坪浦(逗子【ずし】市)からの帰途,和賀江付近で襲って殺害した事件で,和賀江が当地に含まれていたことが知られる同書同4年8月16日条には,鶴岡放生会の馬場の儀の際,広瀬四郎と当地の住人鬼童丸が相撲をしたことが記されているまた「鎌倉大日記」貞永元年項には「七月十二日至九月廿八日,鎌倉築飯島,往阿弥勧進」と見えるが,「吾妻鏡」貞永元年7月12日条には,勧進聖人往阿弥陀仏が「和賀江嶋」を築くことを北条泰時に申請した旨が記されており,この飯島は和賀江嶋に相当するものと考えられるまた,天福元年8月18日条によれば,北条泰時が江島明神に奉幣しようとした時,前浜で殺人があり,泰時は「武蔵大路・西浜・名越坂・大倉・横大路」などを警固するよう御家人に命じている南北朝期の延元3年3月日の国魂行泰軍忠状には,「同(延元2年12月)廿四日五日,鎌倉飯嶋・椙本合戦」とあり,国魂行泰が北畠顕家の軍に属して鎌倉にいた足利義詮を攻めたことが記されている(大国魂神社文書/県史資3上‐3355)暦応2年12月9日の室町幕府禅律方頭人奉書には「円覚寺領尾張国富田・篠木両庄米運送飯嶋関米等事」と見え,当地に関所があり,関米が徴収されていたことが知られる(円覚寺文書/同前3471)なお,この関所については,徳治2年6月18日の鎌倉幕府問注所執事太田時連・明石行宗連署奉書案には「□(和)賀江関所」と見える(金沢文庫古文書/同前2‐1589)また貞和5年2月11日の足利尊氏書状写によれば,「飯島敷地升米并嶋築及前浜殺生禁断等事」とあり,極楽寺長老に当地の升米(津料)および島築興業のことなどを支配管理させている(極楽律寺要文録/県史資2‐4014)なお,同文書には「任忍性菩薩之例」とあり,前述の往阿弥陀仏のあとをうけて忍性が修築に当たっていたものと推定されるついで「後愚昧記」応安3年9月13日条には「又相模国大水四十年来未有如此之事,鎌倉に向ヘル,号飯嶋之孤島〈在家三百余宇,富饒所云々〉皆以流失,不在所云々,希代事也」とあり,当地が大洪水のため流失した旨が記されているが,地理的には当地ではなく江ノ島付近に当たるとも考えられるなお「唐糸さうし」には万寿姫の今様の中に「いゝしま江の島つづいたり」と見え,「浜出草紙」にも「飯島,江の島続いたり」とある(御伽草子/古典大系)江戸期の材木座村の小名に飯島があり,現在の鎌倉市材木座6丁目のうちに比定される

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7302159 |