犬懸(中世)


鎌倉期~戦国期に見える地名相模国鎌倉郡のうち犬懸谷ともいう狩のとき犬がかけまわったので名づけられたとも伝えられる「平家物語」および「源平盛衰記」によれば,治承4年8月の小坪合戦の時,鎌倉に立ち寄った和田義茂は,「犬懸坂ヲハセ越」て名越に出たという寛元元年の曼荼羅供作法奥書(吉水蔵目録)に「於相州鎌倉犬黙(懸)草堂」とある「吾妻鏡」寛元3年3月16日条によれば,将軍藤原頼経が二所奉幣使派遣の精進のため「日光別当犬懸谷坊」に入御しており,当地に日光山別当の坊があったことが知られる「諸尊法目録」の識語(金沢文庫古文書11)に見える「延慶三年六月十六日,於関東犬懸坊,悉奉明忍上人畢,沙門益性」も,この坊を指すものと思われる下って,「常楽記」文和2年3月6日条に「帥法印憲照於鎌倉犬懸円寂〈七十五歳〉」と見える(群書29)応安3年12月27日の細川頼之奉書案には「犬懸坊領事」とあり,先師経深法印の譲りに任せて,水本法印御坊(隆源)に安堵されており(醍醐寺文書/県史資3上‐4651),同4年5月27日の細川頼之奉書でも「犬懸坊領武蔵国栗木寺事」を沙汰するよう上杉能憲に命じている(西村信次氏所蔵文書/同前4664)応永5年3月日の俊誉申状写によれば,慈覚大師が将来した推天聖天が京都から「犬懸谷」に下着している(相文/同前5204)これも犬懸坊をさすのであろう同23年10月2日には上杉禅秀の乱が起こるが,「湘山星移集」には翌3日のことを「翌日,依為悪日,従犬懸方(上杉禅秀)不動,従佐介(上杉憲基)不寄」と記している(続群21上)なお「上杉系図」には,禅秀(氏憲)の祖父憲藤の傍注に「犬懸元祖」とあり(続群6下),代々当地に住して犬懸上杉氏を称し,関東管領に任じられていたが,上杉禅秀の乱後その勢力は衰えたついで永享の乱の時,永享11年10月3日鎌倉を留守していた三浦時高は三浦に帰り,「同十七日鎌倉へ進発し,大蔵・犬懸等千間放火す」とあり,上杉憲実に応じて鎌倉に攻めこんでいる(関東合戦記/同前21上)なお,江戸期に成立した「玉舟和尚鎌倉記」によれば,釈迦堂の東に「犬書僧正屋敷」といって子供のひたいに犬の字を書きはじめた僧正の古跡があったと伝える江戸期の浄明寺村に犬懸谷があり(新編相模),現在の鎌倉市浄明寺のうちに比定される

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7302306 |