大工町?(近世〜近代)


江戸期~昭和36年の町名古志郡のうち明治初年~明治43年は長岡を冠称城の北西江戸期は長岡城下の西隣地名は,藩の御作事方に属する大工や,それに関係する木挽が集団的に居住していたことによる元和8年の町割によれば町人地との境に内川(柿川)が流れ独立区画となっていた元和年間藩の御大工組下の職人は45軒(長岡藩の歴史),その後町方の大工や木挽も住むようになり,江戸中期には御大工組下の大工・木挽が22軒,町方の大工・木挽が90軒,その他屋根ふき11軒,畳職・塗師など11軒(長岡懐旧雑誌)元禄8年には大工職69軒(長岡の歴史)町の西端にはもと妙見にあった太子堂が移され,2月22日の太子講には職人が集まったまた町内には徳宗寺・法蔵寺・円宗寺などの寺が蔵王から移された安政5年に長岡船道の河戸の便をよくするため,信濃川から内川(柿川)への水量の流入を図った新川が町の北側に掘削された戊辰戦争で一部焼失したが,明治期になると中島地区の開発に伴って町屋が増加した明治22年長岡町,同39年からは長岡市に所属大正9年の人口1,198,昭和9年の世帯数275・人口1,403昭和8年長岡病院が日本赤十字病院と改称され,地内に移転明治43年草生津【くそうづ】の一部を編入昭和36年日赤町1~4丁目・春日町1~2丁目となる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7311562 |