田屋梶屋敷村(近世)


江戸期~明治初年の村名頸城【くびき】郡のうち早川河口部左岸,姥川沿岸中世末には田屋・田伏・梶屋敷の各村とともに金山城の城下町を形成していたと考えられる地内には立壁・立ノ内の地名が残り,居館があったと思われる当集落は本村である梶屋敷村とともに北陸道の宿場町をなし,馬13疋・人足13人を負担してきた(糸魚川市史)はじめ高田藩領,天和元年幕府領,元禄4年糸魚川【いといがわ】藩領,同8年幕府領,文化6年からは再び高田藩領村高は,「天和高帳」114石余,「天保郷帳」では梶屋敷村枝郷とあり125石余延宝8年に30石余の川欠,貞享2年に36石余の日損悪作引,正徳4年に43石余の川成・山崩れ等の記録があり,災害の多かった村である(糸魚川市史)神社は熊野三社権現明治初年梶屋敷村の一部となる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7312140 |