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長岡藩(近世)


江戸期の藩名古志郡長岡に居城を置いた譜代中藩元和2年信濃国飯山藩5万石の堀直竒が3万石の加増を得て8万石で入封したことにより立藩されたもともと直竒は,慶長3年堀秀治が春日山藩主として越後一国を支配するとその一門として魚沼郡坂戸城2万石を所領していたが,同7年同じく一門で長岡の西北の蔵王堂城4万石を支配していた堀美作守親良が病のため甥の鶴千代に跡を譲ると,直竒は幼弱な鶴千代の後見役としてしばしば蔵王堂城を訪れ,政務を兼任していたそして,その頃から蔵王堂城が信濃川の川欠によって城下が蚕食されることから新たに南東の長岡の地に新城と城下町の建設に着手したが,堀一族の権力抗争に伴い,同15年飯山へ移されたという経歴をもっていた堀直竒にとって長岡への入封は旧領への復帰ともいえるもので,ただちに念願の築城と町づくりに取り組んだ所領8万石は,古志郡,蒲原郡西部および三島【さんとう】郡・刈羽郡・魚沼郡の各一部にまたがっていたしかし,元和4年わずか2年間の統治で岩船郡村上(本庄)10万石に移封となった同年代わって牧野忠成が頸城【くびき】郡長峰5万石から長岡へ6万2,000石として入封した牧野氏は,以後廃藩置県まで,初代忠成・2代忠成(忠盛)・忠辰・忠寿・忠周・忠敬・忠利・忠寛・忠精・忠雅・忠恭・忠訓・忠毅と13代にわたって長岡藩を統治した元和4年知行目録によれば,拝領高は蒲原郡内2万2,544石余,古志郡内2万5,118石余,刈羽郡内1万3,312石余,頸城郡内1,025石余の合計212村・6万2,000石(県史資料編7)その後間もなく刈羽郡と頸城郡の所領が収公されて古志・三島郡内に代地が給され,また同6年には1万石が加増されて古志郡栃尾郷73か村が藩領に加わり,ここに長岡藩牧野氏7万2,000石の知行高がほぼ確定したその後,寛永2年に新開地2,023石余が高入れとなり,本知7万2,000石に加えて合計7万4,023石余の朱印状が与えられたまた,同11年忠成(初代)は次男の康成へ本田・新田を交えて蒲原郡内17村・三島郡内13村の計30村・1万石を分知して与板藩を立てさせ,三男定成に本田・新田を交えて蒲原郡内17村・6,000石を分知して旗本とした(のちの三根山藩)ただし,忠成の知行高はそのまま変わらなかったなお,所領そのものは,寛永7年・正保4年・元禄16年・宝永5年に小規模ながら幕府領・高田藩領・三根山領などと領地替えが行われているさらに,天保11年には川越・庄内・長岡3藩のいわゆる三方領地替えが計画されたが,庄内藩領民の反対運動によって翌12年中止されるという事件があったが,これに関連して同14年新潟町(新潟浜村)を幕府に上知されたことは,長岡藩にとって大きな痛手であった「寛文朱印留」によれば,藩領は,古志郡宮内・三十八・新町・曲方・豊詰・上島・竹ケ花・村松・広道・渡沢・猪沢・犬茂島・滝谷・蛇山・六日市・中潟・妙見・白岩・東山・浦柄・横渡・釜島・岩野・十日町・片田・中屋敷・大石・定明・下条・田中・虫亀六ケ・四郎丸・鉢伏・柿・青木高畑・鷺巣・町田土倉・横枕・上条・大町・土合・釜沢・寺島・高山・前島・高瀬・千手・新町・河崎・中沢・谷内・野崎・長倉・常願寺・西片貝・東片貝・栖吉・乙吉・宮地・麻生田・宮下・富島・亀貝・水穴・新保・小曽根・浦瀬・桂沢・加津保沢・亀崎・耳取・鳥屋脇・漆山・百束・福島・稲葉・下条・高見・黒津・天神小屋・芹川・三宮・槙山・高野・大荒戸・福道・上柳・下柳・河袋・李崎・南新保・新町・小貫・田井・椿沢・和田・時水・本尊・太田・牛ケ嶺・土ケ谷・栃窪・軽井沢・一貝・楡原・西野俣・木山沢・中・中子・巻淵・本所・滝下・蜜(葵か)谷・島田・葎谷・原・下樫出・神保・山口・悪戸川・山屋・荷頃・平・市渡戸・上樫出・熊袋・小向・来伝・赤谷・栃堀・宮沢・松尾・泉・菅畠・天下島・大河戸・吹谷・森上・半蔵金・中野俣・本津川・栗山沢・金沢・下塩・塩新町・梅野俣・滝口・九川・池之島・文納・平中野俣・水沢・二日町・上塩・栃尾・大野・田口・入塩川・比礼・塩中・人面・名木野・鴉ケ島・宮野原・左近・槙下・道満・玄蕃・西野・三郷屋・田屋・川(片か)端・草生津【くそうづ】・竹沢・種苧原・永田・宮原・溝・蓮潟・巻島・栃尾浦・摂田屋の182村・4万1,210石余,三島郡中条・田尻・岩方・馬越・吉津・本与板・瓜生・下河根川・新保・河根川・王番田・下除・上除・本大島・灰下・片貝・下条・親沢・沢新田・下・才津・富安・下山・大島・飯島・深沢・篠花・水梨・前島・青島・堺・成沢・広野・青山・福山・冨岡・安田・宝地・喜多・福田の40村・1万4,840石,蒲原郡粟生津・大田・吉田・大島・本所・鴻巣・本町・宮小路・原・下和納・天竺堂・割前・巻・須賀・大野郷屋・田島・道河原・小瀬・出郷屋・河崎郷屋・鱸郷屋・下山・西遊利(汰)上・東遊利(汰)上・仁・松野尾・赤塚・稲島・中郷屋・保古野木・明田・大友・赤鏥・曽根・中野小屋・升潟・葉萱場車場・笠木・押付・真田・高山・五十嵐浜・中浜・四ツ郷屋・角田浜・横戸・遠藤・五野上・熊谷・杉沢・新潟浜・下粟生津・槙島・布目・越前浜・泉・尺子木・勘助郷屋・槙尾・小島・坂井・籏屋・法花堂・善光寺・桑山・藤野木・中野の67村・1万7,973石余で,合計7万4,023石余とある「旧高旧領」での藩領は,古志郡263村・6万7,183石余,西蒲原郡82村・4万2,208石余,南蒲原郡1村・630石,刈羽郡19村・3,316石余,三島郡69村・2万2,874石余の合計434村・13万6,213石余(県史研究15)戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加し,軍事総督河井継之助の指揮のもとで新政府に対し徹底抗戦し,長岡城攻防の戦いは激烈をきわめたが,明治元年5月下旬に落城して降伏した藩主忠訓は城地を没収されていったん廃藩となるが,同年12月忠毅が相続し,新たに古志郡内69村・2万4,000石で再興を許されたしかし,戦争の疲弊と5万石削減により藩財政はきわめて厳しくなり,財政援助を政府に嘆願せざるをえないほど切迫したため,重臣三島億二郎の進言にしたがって,明治3年10月22日長岡藩は自ら申し出て廃藩となり,柏崎県の一部となった

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KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7312928