法泉寺町(近世)


江戸期~明治7年の町名敦賀町の1町裏ノ門町の南筋の町で,東は射場町,西は塔場町射場・塔場両町ともに川中地区の南端に位置するなお,慶長3年7月の津内村検地帳(田保家文書)に「法泉寺前」と見える「敦賀志」は町名の由来について「二百五六十年前,此処に今の法泉寺有し故の名也,一名今中ノ橋と云ハ,中ノ橋の南の末に出来し町故しか云ひしなるべし」と記す枝町に今中橋町・殿町がある寛文3年の家数は,法泉寺町121うち家持67・貸家51・寺3,今中橋町22うち家持14・貸屋8(寛文雑記)享保11年の家数82(指掌録)殿町について「敦賀志」は「宗滴(朝倉教景)入道の館の跡ならし,殿町の名も宗滴によれる名なるべし」とし,「敦賀雑記」は「(越前守護)朝倉義景ノ館アリシ故ニ此名アリ」とする殿町南端にある天台宗西教寺末御館山法泉寺は法泉寺町から移転したもので,俗称を館之寺といい,永禄元年6月5日の善妙寺領目録(善妙寺文書)に「館之寺」と見えている開基は恵心僧都源信と伝え,長徳2年の創立恵心僧都が心願のため気比大神宮に参籠の時,敦賀松原駅への街道筋にあたる砂流【すながれ】村藤原定斎の家に掛錫して一宇を建立,僧都手ずから薬師如来像を彫刻して安置し,医王山地福寺と号したその後,廃頽したものを長享2年朝倉貞景が帰依僧真盛上人を留めて学舎を再建,寺領70石を寄せ法泉寺と改号したなお,今中橋へ移転の時期は不詳(敦賀志)天和2年法泉寺町には寸莎屋と,敦賀湊に陸揚げされる荷物の再梱包を職とする「からげ」の頭2人のうちの1人である又四郎がいた(遠目鏡)また,法泉寺町南端に島寺町本勝寺末妙因寺(現廃寺),殿町の北端近くに真宗東本願寺派長賢寺がある「敦賀県管轄区分表」による法泉寺全町の家数104明治7年末吉町と改称

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7333975 |



