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田野口藩(近世)


江戸期の藩名譜代小藩大給松平氏の分家松平家乗(のち三河国西尾藩)の弟真次を始祖とし,その子乗次の代,貞享元年2月大坂城番になるとともに1万石を加増され合計1万6,000石の大名となった所領のうち4,000石は三河にあり,はじめ父祖の地同国加茂郡大給村に本拠(陣屋)を置いたが(大給藩),宝永8年本拠を同国額田郡奥殿村に移した(奥殿藩)残り1万2,000石分は丹波・摂津・河内にあり,一時常陸に替えられたこともあった宝永元年にこの分を信濃国佐久郡内で与えられ,三河の分と合わせて以後廃藩に至るまで所領の変化はなかった非領国型で藩主は江戸屋敷におり,領国には陣屋を置き,郡代(のち代官のみ,幕末に郡奉行設置)を任命して支配にあたらせた佐久郡内の所領は25か村で,はじめ三塚に陣屋を置いたが,宝永6年田野口に移され,同所に郷宿2軒が選定され,また同村内有力百姓から割元役が任命された村役人は旧来の名主・長百姓が用いられたが,宝永7年からは名主・年寄に改められた佐久郡内の拝領高は元禄年間の改検地までを含み,新田開発などによる所領増加も困難なため,年貢増徴が行われたが財政は不如意で,領内有力百姓に御用金調達を命じ,宝暦年間には御用達を任命した宝暦4年領内17か村が加わった一揆が起こり,年貢減免などを要求したその一部を認めさせて成果はあげたが,首謀者とみなされた割元小林孫左衛門は打首・闕所となり,領分払や所払となったもの7名,30~50日の手鎖となったものは34名に及んだ文化年間田野口陣屋の代官の間で不正をめぐる争いが起こり,村方からも投訴が行われ,最終的には前島発多が出奔し,のちのちまで悪代官と評された最後の藩主松平乗謨は文久3年本拠を三河から信州陣屋に移して,田野口藩と改称し,同地に五稜郭を設置したこれは乗謨が大番頭から若年寄に進み幕府の陸軍奉行となったことと関係するさらに慶応2年老中格となり,陸軍総裁に任命されて,将軍徳川慶喜が進めた幕府再編成の一環である老中の五局制の一端を担った慶応4年1月18日老中格・陸軍総裁を辞退した乗謨は,同3月上京,参内したが謹慎を命じられた赦免の沙汰書が5月にもたらされると,陣屋の所在地の地名をとって竜岡藩と改称することを願い出て許可された明治2年3月版籍奉還を上奏し,6月には許可されるとともに知藩事に任命された同4年5月兵制の統一を主張し廃藩辞職を申し出て6月には認められ,7月には長野県引渡しが済んで竜岡藩は消滅したなおその際当藩の信濃分が中野県,三河分が伊那県に編入された

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KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7340261