東条荘(中世)


平安末期~戦国期に見える荘園名水内【みのち】・高井両郡のうち「吾妻鏡」元暦元年2月30日条によれば,「信濃国東条庄内狩田郷領主職」は式部大夫繁雅の本領であるとの訴えにより,頼朝はこれを繁雅に環付している同書文治2年3月12日条所収の同年2月日の関東知行国乃貢未済荘々注文に「信濃国……〈八条院御領〉東条庄」,嘉元4年6月12日の昭慶門院御領目録に「一,安楽寿院領……信濃国東条庄〈繁世相伝知行不可有相違之由被仰了〉」と見え(竹内文平氏所蔵文書/信史4),当荘は鳥羽上皇が建立した安楽寿院領荘園で,鳥羽上皇から皇女八条院に相伝された建武5年3月18日以前,高梨定仏の娘源氏は弟忠保と「信州東条庄山田郷小馬場村」の在家田畠を争論していた(伊佐早文書/同前5)明徳3年3月日の高梨朝高言上状案に「東条庄内郷長郷事」と見え,高梨弥次郎以下が勲功の賞として拝領したと記されている(高梨文書/同前7)荘域については,嘉暦4年3月日の諏訪上宮五月会などの頭役について定めた鎌倉幕府下知案に当荘内として「本郷・甕・法連・新保郷」「小布施・部木田・治・真野・矢島・堤郷」「和田郷」「南大熊」「米持・南北原郷」の郷名が見え(守矢文書/同前5),下って天正6年の上諏訪大宮造宮清書帳には外垣20間を負担した当荘のうち,和田之郷・尾張辺郷・今井之郷・石和田(石渡)郷・南堀之郷・徳長之郷・飛岳(富竹)之郷・小島之郷・北村之郷・北堀之郷・宮之郷・今井分・飯田之郷・小布施【おぶせ】郷・江辺之郷・新法(保)之郷・北大熊之郷・狩田之郷・北小河原郷・南小河原之郷・北駒沢之郷が見える(信叢2)現在の小布施町を中心に,南は現在の須坂市米持【よなもち】以北,北は現在の中野市南西部,西は千曲川を渡って現在の長野市東北部が含まれ,当荘はこの地域に散在していたと思われるなお前述の嘉暦4年の鎌倉幕府下知状案に2番五月会分として「狩田郷内東条村」が見えるが,当荘名は同村名に由来するか

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7341123 |