高橋郡(中世〜近世)


戦国期~江戸初期に見える郡名三河国のうち三河国内であるが,尾張国分とされる場合が多かった郡名は中世の高橋荘に由来するとみられる「信長公記」巻首に「翌年四月上旬,三州梅が坪の城へ御手遣……野陣を懸けさせられ,是より高橋郡御働き」と見え,永禄4年に織田信長が三河国加茂郡高橋荘に侵入し,挙母【ころも】城主中条氏を追ってその旧領を支配下におさめてから高橋郡と称したとみられる天正8年までは佐久間信盛と与力余語(与語)氏などの支配下にあり,天正3年に水野信元が誅殺されて三河国碧海郡の旧領が信盛に与えられると,これも高橋郡と称されたらしいが,信盛追放後は信元弟忠重領に復帰したようである本能寺の変後は織田信雄領となり,「信雄分限帳」では与語久兵衛2,900貫文・平松与左衛門2,300貫文・原田右衛門太郎400貫文が高橋郡にあった天正18年の信雄没落後は尾張国分として豊臣秀次領か天正20年施行の太閤検地帳では八草・篠原【ささはら】・猿投【さなげ】の各村が高橋郡とされている(豊田市史7上)天正年間以前は,加茂郡の矢作【やはぎ】川以西が高橋郡と称されたことは確実である「駒井日記」文禄3年正月7・8日条に尾張国中堤防普請について高橋郡も尾張国中とされ普請役賦課がなされている(祐徳文庫本/史林70‐1)文禄4年7月豊臣秀次が高野山で自殺すると,当郡内は周辺の豊臣大名に分給された同4年8月3日に秀吉が水野忠重に三河国内で5,000石を宛行った知行方目録には,下市場・金谷・御船・知立・福谷【うきがい】・南荕生【みなみあざぶ】・荕生・富田・西広瀬・松嶺・藤沢・押沢・渡合の13か村が高橋郡とされており(茨城県歴史館保管結城水野家文書),うち知立など4村は本来は碧海郡であったこのような郡域の拡大は文禄5年7月27日の田中吉政宛て知行方目録でもみられ(柳川市所蔵田中文書/岡崎市史研究9),「三州高橋郡」とある橋目・山崎・上野・館出・西端・福釜【ふかま】・西境・阿弥陀堂・たかむら(竹村)・中島・渡刈・土井・小針・河野・榎津・寺部・中根・東端・和泉・中切・別所・小垣江・小望・上条・本地・今の26か村のうち本地以外の25か村は本来碧海郡の村々であったこの時期には先の郡域に碧海郡域が加わり,ほぼ三河国のうち矢作川以西の地が高橋郡とさされている慶長5年以後の史料には見えなくなるので,関ケ原の戦後の所領替えによって高橋郡は消滅したとみられる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7358503 |