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久居藩(近世)


江戸期の藩名伊勢国一志【いちし】郡久居(久居市)周辺その他を領有した外様中藩津藩の支藩久居に陣屋が置かれた寛文9年,津藩主2代藤堂高次の二男高通が伊勢・山城・大和の3国のうちにおいて5万石を分知されて立藩版籍奉還時の江戸城中の詰所は柳間元禄10年高通の遺領を継いだ弟の高堅は,自分の知行3,000石を合わせて5万3,000石を領有することになり,その後は代々その石高を領知した分封時の郡別村数および石高は,伊勢国一志郡24村1万5,100石,安濃【あの】郡9村6,480石,奄芸【あんき】郡12村6,270石,鈴鹿郡7村4,679石,河曲【かわわ】郡4村3,100石,三重郡11村4,350石,山城国相楽郡15村2,955石,大和国添上郡4村・山辺郡15村・式上郡1村・広瀬郡1村・十市郡7村の合計7,074石で総計5万石元禄10年の増封分は安濃郡6村3,000石(藤影記)内高(実高)は,明治初年の表高5万3,000石に対し約5万8,700石藩主は高通(~元禄10年)のあと高堅(~正徳5年)・高陳(~享保8年)・高治(~享保13年)・高豊(高朗,~享保20年)・高雅(~宝暦13年)・高敦(高嶷,~明和7年)・高朶(~安永4年)・高興(~安永6年)・高衡(~天明元年)・高矗(~寛政2年)・高兌(~文化3年)・高邁(~文政元年)・高(~天保3年)・高聴(~文久3年)・高邦(~明治4年)と16代にわたり相続久居藩主16代のうち実子相続は3代の高陳のみで,16代高邦が孫相続のほかは弟などが養子となって相続した藩主が頻繁に交替したことは,宗家津藩の相続者が当藩から出たことも関係があり,4代高治・5代高豊・7代高敦・12代高兌は宗家の藩主となっているこのように久居藩の創設は宗家の家系断絶防止の目的から生まれたもので,領地も宗家より内分として取り扱われ,表面は宗家津藩32万石余のうちに含まれていた分封の許可とともに家臣団も伊勢・伊賀両国の侍の中から約70人が久居付とされたまた久居藩は城主格大名の待遇で築城は許されず,寛文10年一志郡内で築塁の許可がおり,野辺野の台地に領民および津藩領からの助勢を得て陣屋と城下町を建設した同11年の高通入部時には侍屋敷約200戸・町家約500戸が完成していた(藤影記)藩政は宗家津藩の制度や慣習を踏襲し,重要事項の決定に際しては宗家の役人へ相談する方針がとられた2代高堅のとき江戸の根津権現手伝い工事を命じられたまた江戸屋敷の再三の焼失により,6代高雅の頃には藩財政が窮乏し,藩士の分掛(俸禄の借上)や倹約を徹底した12代高兌は,前代高朶の創意であったが分掛と財政窮乏で実施を見送っていた義倉を実施義倉は家臣団から実収の100分の1を積み立てさせ,要救済者に貸し出す家臣団の互助共済制度で,廃藩時まで実施され,これにより家臣団を高利貸から守り,また藩財政をも補った廃藩時の積立金と利子は11万6,800両にも及ぶ(藤影記)天保7年の凶作の打撃で藩財政は窮境に陥り,同14年藩主高聴は難局打開策を諮問したこれに対し寄合席の吉武五郎太夫らが荒地開墾を願い出て,同15年から南郊の戸木村開発に着手し,またこれと並行して雲出川の堤普請も行われた藩主以下藩士が参加し,近郷の農民や町方,さらに遠方の同領三重郡尾平組・奄芸郡林組の農民も助勢し,同年11月田1町余・畑2町余の開墾を完工(藤影記)幕末期,津藩とともに天誅組討伐に従軍慶応2年山城宇治橋および伊勢山田の警衛に当たった久居は津藩の支藩であるため,藩士も宗家津藩の家塾に通い藩校はなかったが,慶応2年久居巽ケ岡に句読所を設け,明治2年学制を改めて久居藩校と改称,同3年英語教育も採り入れられた同4年義倉積立金のうち3万2,060両を基金として久居義塾を設置,旧藩領9か所に分塾をおいて士民を問わず入学させ,小学校教育の先駆をなした(三重県教育史第1巻)明治4年廃藩となり,伊勢国内の藩領のうち安濃・奄芸・鈴鹿・河曲・三重の各郡は久居県を経て安濃津【あのつ】県となり,同5年三重県に所属し,一志郡は久居県を経て度会【わたらい】県となり,同9年三重県に編入された

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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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