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綾部藩(近世)


江戸期の藩名外様小藩居城は綾部城綾部藩は,寛永10年に九鬼隆季が2万石の城主として丹波国の何鹿【いかるが】郡内に8か村,天田【あまだ】郡内に19か村を与えられて立藩した翌11年11月に綾部へ入部した隆季は,下市場に居館を構えたが焼失し,慶安4年上野台地に城館・武家屋敷を構築,北方の本町・西町などの低地に城下町を建設して藩の創業に尽くしたまた,寛文元年弟の隆重に天田郡内500石を分与(のち幕府領),以後表高は1万9,500石となったが,天明期~寛政期に所領の一部に移動があった延宝2年,2代隆常が継いだ頃から藩財政が困窮し,延宝7年・元禄8年の2度の年貢減免の百姓一揆を招いた元禄11年隆常が没したのちは,隆直―隆寛【たかのぶ】―隆貞―隆祺【たかよし】―隆郷【たかさと】―隆度【たかのり】と継承したうち隆寛の治世は約50年に及び,正徳5年には藩校進徳館(のち篤信館)を開き,漢学・筆道・習礼などを藩士子弟に講じている当藩はたびたび災害に見舞われたこともあって財政窮乏をきわめた藩は,臨時高役,御用金の賦課,藩札発行,藩士の上米などで窮地を切りぬけようとしたが,宝暦2年御用金賦課を契機として大規模な強訴をみたその後襲封した9代隆都【たかひろ】は,天保11年に佐藤信淵を招き,栽培・施肥の方法にまで及ぶ農業の改善,綿・煙草・桑・茶などの商品作物の増産,社倉講の設立を実践して農村の復興を図っている他方,隆都は幕府大番頭,二条定番,大坂定番や安政2年には講武所総裁など幕府の要職に任ぜられている文久元年に継いだ10代隆備【たかとも】は,京都警備・丹波口守衛にあたるとともに,藩儒近藤勝直の意見を入れて朝廷にも接近し,早く天下の動向を察知して,大政奉還後いちはやく山陰道鎮撫使のもとに帰順している明治初年表高1万9,500石に対し,内高は2万1,062石同2年版籍奉還当時の江戸城中の詰所は,柳の間同4年廃藩となり,藩領は綾部県を経て,京都府に編入された

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KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7373494