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郡戸荘(中世)


平安期~戦国期に見える荘園名摂津国東成【ひがしなり】郡のうち保元2年12月8日付の法橋信慶書状(平範記紙背文書/平遺4767)に「摂津国法成寺領,東北院領〈山本御薗・郡戸庄・新居庄〉」とあるのが初見これは三箇荘の公験提出を太政官から求められた信慶が,自分は数年間知行しておらず事情不明なので如何すべきかを近衛家の家司平信範に問い合わせたものである法成寺は藤原道長建立の寺院,東北院は道長の娘彰子(一条天皇の中宮)の御願寺であるよって当荘はもと道長領であったが東北院に寄進されたもので,信慶書状よりみて摂関家が本所として管理をしていたものと考えられている次いで嘉元3年4月頃と推定されている摂籙渡荘目録(宮内庁書陵部所蔵/九条家文書1)に「一,東北院領……摂津国……〈御祈祷料所〉郡戸荘 免田十二町 年貢油二石」とあり,年貢油を負担していることがわかる暦応5年正月日付の摂籙渡荘目録(同前)にもほぼ同様の記載が見え,「御祈祷所」の代わりに「藤大夫業貞」とあり,彼が預所職であったかと思われる当荘が摂関家の殿下渡領になり同目録に見えるのは,おそらく法成寺がしばしば火災に罹り次第に衰退していった故であろう殿下渡領としては,「御法興院雑事要録」に収められた明応2年の渡領支配事に「望俊〈摂〉郡戸庄」と見え(吹田市史4),また「宣胤卿記」の明応6年10月10日条にも殿下渡領所々の項に「郡戸〈コウト〉〈摂津〉」とあり(竹内理三:日本荘園史講33/日本歴史157),戦国期まで続いたことがわかるこの間に当荘の地頭職は北野天満宮に寄進された「北野社家日記」長享2年10月14日条に収める同月13日付の松梅院禅予支状に「同(摂津)国郡戸庄……等事,為 鹿苑院殿様御寄附之地」とあり(纂集),足利義満から寄進されていることから,当荘の地頭職が北野天満宮に寄進されたのは,南北朝末期か室町初期と思われるまた寄進されたのが地頭職であることについては,同日記の長享2年10月12日条の中に見える同年3月日付の宝成院明順支状の中に「郡戸庄地頭職」とあり,応仁の乱後の間もない頃と思われる摂津国寺社本所領并奉公方知行等(蜷川家古文書23)にも「一,北野宮寺領 榎並上庄四分壱地頭職……郡戸庄地頭職〈不知行〉」と見えることからわかるその他に享禄4年12月29日付の北野宮寺宝成院知行目録(北野神社文書)などにも見えるこの地頭職をめぐって北野社内の松梅院と宝成院との間で争いがあったその概要は「北野社家日記」1に見える(纂集)同日記の長享2年10月12日と14日条には,義満から寄進を受けたのは松梅院だったが,将軍義教の時に禅能が上意に違ったため取上げられ,競望していた宝成院明憲に預けられたとあるその後,子の禅親の嘆願により地頭職を回復したしかし,寛正2年に禅親父子に不儀の子細があって一旦宝成院に与えられかけ,松梅院側の申し開きが成功したが,このため不満の宝成院側は訴えたようである文明14年に宝成院明充が訴えた時は失敗し,文明14年12月18日に松梅院禅椿に足利義政より当荘地頭職を領知するよう安堵されている(北野神社文書)しかしその後も宝成院側の訴えがあり,長享2年にもち越されたこれより先,「北野社家日記」の長享3年6月20日条(纂集)に見えるように長享元年9月23日に禅椿は初座供奉の社頭警固を勤めなかったので松梅院の御師職を追放されていたしかし係争中の長享3年4月3日には松梅院に乱入して逐電したため,同年6月12日には禅予の進退問題にまで発展した(同前)宝成院もこれを追及し,同日記2の延徳2年3月4日条に見えるように,延徳2年2月25日に細川政元より当荘等を守護不入の地とする書状が松梅院禅予に出されたしかし延徳3年4月29日条には,延徳3年4月15日に社務側から禅予が社例に違反との申し出もある中で,やがて宝成院側に同地頭職等は入ったらしく,前出の享禄4年の宝成院知行目録に見えているなお「明月記」の後鳥羽院熊野参詣を記した建仁元年10月5日条に窪津より出発して,「又先陣参コウト王子如前儀」とあり,当地に熊野参詣九十九王子社の1つである熊野王子社があったことがわかるまた文永5年11月13日付の亀山天皇宣旨案(壬生家文書/鎌遺10329)に「摂津国……郡戸伴寺」と見え,桜井宮門跡から円助親王に相続された中に郡戸伴寺があったことが知られるなお当荘内には摂関家支配の郡戸関があった(府史)中世末期には「かう津」と見え,現在の大阪市南区高津を中心とするあたりに比定される

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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7383062