関屋町(近世〜近代)


江戸期~昭和50年の町名明治中期~昭和6年は兵庫を冠称江戸期は兵庫津南浜の1町地名は,鎌倉期東大寺の俊乗坊重源によって兵庫津が改修されて以来,津料の収入を目的におかれた関所によるという(西摂大観)元禄古図では御屋敷(兵庫城本丸跡)の東,海に面して当町がある兵庫津十二浜の1つで諸荷物問屋・倉庫群のある町として栄えた寛政8年の家数143・人口476(安田家文書)明治元年南組,同5年兵庫3番組に属す同12年神戸区,同22年神戸市,昭和6年同市湊西区,同8年からは同市兵庫区に所属明治9年新川運河開削完工,一部が同運河の河川敷となる世帯数・人口は,昭和5年132・591,同35年43・171第2次大戦後,昭和28年まで米軍のスクラップヤードとして接収された同50年中之島1~2丁目となる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7392539 |