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辻川村(近世)


江戸期~明治9年の村名播磨国神東郡のうち田原荘に属した市川中流左岸,日光寺山山塊の西端,辻川山の南麓にあたる古くは有井村ともいう(「峰相記」に記す有井堂との関連か)地名は東西を貫く北条~山崎の街道と飾磨~生野を結ぶ南北の街道とが交わる辻に位置することに由来するという一説には田原川と市川との合流地,川の辻の意ともいうもと豊臣氏蔵入地慶長5年からは姫路藩領辻川組に所属村高は,「正保郷帳」98石余うち田79石余・畑18石余,寛延年間122石余(神崎郡誌),「天保郷帳」123石余,「旧高旧領」133石余集落は東西の街道筋に沿って発達大庄屋三木家は飾磨の英賀城主の子孫で,羽柴秀吉の播磨平定後ここに移り住んだと伝え,江戸期を通じて代々大庄屋を勤め,管轄下の村数21か村,寛延3年には八反田組23か村,宝暦初年には山崎組19か村の大庄屋をも兼帯した寛延の一揆でも村人の評判がよく,市川筋では打毀を免れた唯一の大庄屋であった(県史4)鎮守鈴ノ森神社は安産の神としても知られる鈴ノ森は「大己貴尊ト峰相山ヨリ宍粟郡ヘ遷座ノ時播磨ノ神々集会之所也」(播磨鑑)という古くからの名所である幕末に寺子屋が開かれた明治4年播但一揆は辻川組大庄屋所の焼打ちに端を発し,神東・神西両郡で170余村延べ1万余人の民衆が参加するという大規模な一揆へと発展した同6年明徳小学校開校同8年日本民俗学の創始者柳田国男が当村で生まれた生家が鈴ノ森神社境内に保存されている同9年西田原村の一部となる

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KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7393345