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輪田荘(古代〜中世)


平安期~戦国期に見える荘園名摂津国八部【やたべ】郡のうち室町期には兵庫輪田荘ともいった六甲山地西部山麓南側,和田岬から東に湾曲して伸びる,大阪湾に面する平地に位置する延久3年6月24日付太政官符に,正子内親王家領として「輪田荘本免田五町并庄司五人・寄人拾人臨時雑役」を免除するとあるのが初見この官符は延久の荘園整理の折のもので,荘園として公認されてきたことを示す代々の国司免判5通が本家から提出され,改めてその領有が確認されている次いで長治2年2月に橘経遠が右衛門督藤原宗通に寄進した八部郡宇治村石重名の田畠30町が当荘に含合され,いつの頃か摂関家(九条家)に伝領された平安末期平家一門が福原に進出すると,八部郡一帯はその支配下となり,応保年間には当荘は小平野・井門・兵庫・福原など隣荘に押領されて,荘務は中断された(九条家文書2/図書寮叢刊)平家敗退後領有が回復され,九条兼実は当荘の一円不輸化をはかり,在地の掌握につとめて経営を建て直し,報恩院・光明院の料所とするとともに,重代の家領として相伝せしめた元久元年4月23日付九条兼実置文には「摂津国輪田庄 末寺光明院領也」とある(九条家文書/鎌遺1448)また,建長2年11月日付九条道家惣処分状では「報恩院……院領 摂津国輪田庄」と記されている(九条家文書1/図書寮叢刊)鎌倉期には当荘にも地頭が置かれ,はじめ佐久間長盛が入部し,その死後は息女平氏,さらにその没後は,夫薬師寺義清(橘義清)がその職を継承している地頭の入部後在地武家勢力が地頭のもとに結集し,預所・雑掌らと対立を深めたこの間輪田荘は東西に二分され,西方は永仁6年地頭代橘義清が毎年年貢70貫文を進貢する約束で請負う地頭請所となったしかし,地頭側は年貢を抑留し,訴訟が繰り返された応長元・正和元両年の場合は計140貫文あるべきのうち,実際に進貢されたのはわずかに30貫文であったという東方では地頭側が田所名内に地頭給を設定しようとして田所らと対立地頭側が敗訴するなど争いは絶えず,ついに下地中分が行われた元弘の乱後,赤松範資が薬師寺貞義の跡をうけて当荘西方地頭職を得たと称して荘園に侵入,本所九条家といったん対立したが,西方については,建武元年地頭請所として範資が毎年年貢90貫文を進貢することとなったところが範資側は下地を含む一円支配を断行したため,以後長く下地支配をめぐって九条家側と相論が続いた嘉吉の乱で赤松氏が失脚すると,兵庫荘が将軍家料所に召し上げられたが,当荘西方は同じ赤松氏知行下にあったため混同されて料所に編入されたという文安元年2月守護細川氏被官長塩宗永が望んで西方代官となった時,年貢の進貢を申し入れているが,料所たることを理由に拒まれている一方,東方については,嘉吉2年10月九条家がこれを質物として守護細川氏の被官庄信元から借財したため,信元の支配するところとなっていった九条家では繰り返し幕府に働きかけ,ついに文明元年11月に「九条右大臣家領摂津国兵庫輪田庄東西」を九条家の直務とする裁決を得ている(九条家文書2/図書寮叢刊)しかし,文明14年頃の摂津国寺社本所領并奉公方知行等注文では「一,九条関白家領 輪田庄〈不知行〉」とあり(蜷川家文書2/大日古),応仁の乱の余波で退転したものとみられる

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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7397674