稲積荘(中世)


平安末期から見える荘園名伯耆【ほうき】国久米郡のうち「玉葉」治承5年3月25日条に「伯耆国稲積庄,去年被付国了」とみえるのが初見ここにいう「国に付す」とは,後白河院の稲積荘支配権を否定して伯耆国衙の管轄下におくという意味で,治承3年末の平氏政権による後白河院政停止に関係するものと思われる後白河院政は翌治承4年12月に復活し,稲積荘に対する支配権も後白河院から宣陽門院へと相伝され,長講堂領荘園の一部を構成した(建久2年10月長講堂所領目録 島田文書/鎌遺556,年未詳宣陽門院所領目録 島田文書/鎌遺3274)寿永3年4月24日源頼朝下文案(賀茂別雷神社文書/平遺4155)には賀茂別雷神社領荘園としてその名が見え,稲積荘の領主権は賀茂社(本家)―後白河院・宣陽門院(領家)という関係にあったものと推定されるさきの建久2年長講堂所領目録によると,稲積荘が長講堂に対して納付を義務づけられていた負担は簾・御座などの正月元旦に使用される雑物をはじめ,節器物・三月御八講砂・移花・布施布などのいわゆる公事雑物と門兵士・月宛仕丁などの夫役とからなっており,この他いわゆる荘園年貢として莚100枚を納入する定めとなっていた(応永14年3月長講堂領目録写 集文書/大日料7-8)しかし,これらの規定はあくまでも建前であって建久2年当時からその多くは「不勤之」という状況にあった実質的な稲積荘支配権をもつ領家(後白河院・宣陽門院)は院近臣たる上級公家をもって「給人」にあて,荘園からの年貢・公事徴収につとめたようで,その「給人」には正治2年まで民部卿吉田経房が任じられ(同年2月28日吉田経房処分状案/広島県史古代中世資料編V),そしてこの後藤原光親(同前)・同定頼(年月日未詳宣陽門院所領目録/同前)を経て,葉室中納言家に相伝された(応永14年3月長講堂領目録写/同前)「建内記」永享11年6月2日条には「稲積・矢送両庄文書可沽却事」を葉室宗豊が述べており,これ以前の段階ですでに稲積荘が荘園としての実体を失ってしまっていたことが知られる当荘の所在については史料による明示がなく比定困難であるが,以下に述べる諸点から考えて今日の倉吉市上・下米積地域にあったのではないかと推定されるその理由の第1は,名称の類似性もさることながら,当地には賀茂神社が祀られていたので京都賀茂社とのかかわりが考えられる賀茂社の勧請にはそれ自体種々の要因が考えられるが,賀茂社領荘園には必ずその末社が勧請されるならわしであったから,この点で「県神社誌」のこの推定は一定の根拠をもつものといえるであろう第2に,伯耆国府の所在郡である久米郡には,同じく皇室領荘園として久永御厨・山守荘・矢送荘があり,それらは伯耆国府をとりまく形で北から南に並んでおり,上・下米積地域が久永御厨と山守荘とのちょうど中間の平野部にあって,その位置関係からみても妥当性が高いことがあげられるしかし第3に何よりも注意すべきは,「玉葉」養和元年11月5日条に「伯耆国御厨,年来故女院御領也,被付国之条不当也」とあって,治承3年に後白河院の荘園支配が停止されたのは稲積荘だけでなく,「伯耆国御厨(久永御厨)」をも含むものであり,さらに同書治承4年9月23日条には「伯州荘園,停廃宣旨到来云々,四ケ所云々」とあって,それが稲積荘・久永御厨を含む4か所であったと推定されることである史料によって見ると,伯耆国内における皇室領荘園としては他に宇多河東荘(汗入郡)および伯耆一宮(河村郡)の存在が知られ,さきの文書にいう「四ケ所」がこれらのうちのどれを指すのかが問題となるしかし,この荘園停廃の宣旨が伯耆守平忠度(忠盛の7男)の着任直後に出され,当時伯耆国衙には在庁官人の最上位に平家方の小鴨氏があって国府周辺に勢力を誇っていたことを考えると,さきの4か所とは国府周辺に位置する久米郡内の4か所を指したと考えるのが最も妥当であろう伯耆国内には他に「稲積」なる地名が日野郡日南町に稲積山としてみえるが,地理的条件や政治的諸関係から考えて,ここに稲積荘を比定することは困難であり,上記の理由から久米郡内の倉吉市上・下米積地域に比定するのが妥当と考える今後の検討にゆだねたい

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7407310 |