100辞書・辞典一括検索

JLogos

福山藩(近世)


江戸期の藩名譜代中藩元和5年大和郡山6万石の水野勝成が10万石で立藩藩主は勝俊・勝貞・勝種・勝岑と相続,元禄11年勝岑が急逝し無嗣断絶により一時廃藩同13年出羽山形10万石の家門の松平(奥平)忠雅が10万石で入封,宝永7年伊勢桑名に転封,下野宇都宮10万石から阿部正邦が10万石で入封藩主は正福・正右・正倫・正精・正寧・正弘・正教・正方・正桓と相続藩領は,水野氏がのちに相模で加増され,寛文4年当時備後沼隈郡36村・芦田郡25村・深津郡21村・安那郡23村・品治【ほんち】郡19村・神石【じんせき】郡41村・甲奴【こうぬ】郡19村・備中小田郡21村・後月郡1村・相模愛甲郡1村で10万1,012石余(寛文朱印留),松平氏・阿部氏はともに芦田郡28村・深津郡32村・沼隈郡44村・品治郡23村・安那郡18村で10万石であったが,水野氏は実高で5万石多かったという水野勝成は,寛永7年藩札発行を行い,同15年島原の乱では「鬼日向」の面目を施し,勝俊は正保元年~天和2年に「ならし地詰」(検地)を行い財政基盤を固めた藩士は「水野家福山在城時代諸臣分限帳」によれば馬廻り以上の知行取307(うち1,000石以上5),「水野記」では侍士326・徒士589・足軽1,155・小者510の合計2,580また元禄10年当時の領民15万6,637人阿部氏は代々が奏者番・寺社奉行・老中に栄達し,幕閣に参与ために藩財政悪化の一因となり連綿と藩政を改革正邦は入部とともに宝永8年村々に差出帳を徴発し,農政の指針を固めた正福は寛保3年分知制限令・結婚年令制限令などを発布し,翌年には城下木綿橋に目安箱を創設して民意の反映につとめたしかし正右が幕閣に登用されると財政難をきたし,寛延元年藩札の乱発と御用銀の徴収で切り抜けようとしたが,同3年全藩に及ぶ百姓一揆で挫折し,のち特産物の独占的販売の方向に転換正倫は明和6年叔父安藤主馬を勝手御用に登用,江戸藩邸の綱紀粛正を中心とする改革に着手,さらに遠藤弁茂を登用して天明4年新藩札の発行,翌年の木綿統制をはじめとする財政改革を実施ところが折からの大凶作・飢饉から銀札騒動および天明6~7年の百姓一揆を誘発天明8年には年寄上席三浦平十郎・年寄岩野与三右衛門が郡中並勝手方御用掛に任用され,寛政元年大庄屋制を廃して世話役庄屋制をしくなど農政・郡制改革を断行また正精は文化6年「福山志料」を上梓させ幕府へ献上幕末の幕政を担った正弘は,藩内にあっても弘化4年家老内藤景堅に命じて軍制改革を行わせ,安政元年藩校誠之館を創設,家職仕進制を廃して文武両科の考試による人材登用の制を断行し,幕末の難局を切開く布石を投じた「備後郡村誌」によれば,領民人口は正徳元年10万2,679,文化13年11万9,865幕末の長州戦争では譜代大名の先鋒として出兵,戦果はかばかしくなく,藩内は凶作と過重負担に大打撃このなか正方は慶応3年病没し,継嗣問題が未決のまま翌年福山城は長州軍に包囲された藩論は自重派が主戦派を制して長州軍と講和,討幕軍に参加(県史)「藩制一覧」によれば,明治初年の草高11万石,ほかに込高・新田高2,728石余の合計11万2,728石余,および新涯地354町余,新発畑18町5反余,正雑租は米5万1,816石余・金3万7,151両余,戸数3万8,727(うち士族799・卒族1,546)・人口18万5,858(うち士族4,423・卒族4,818)明治4年福山県となる

全文を読むにはログインが必要です。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7423560