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藤津荘(中世)


鎌倉期~南北朝期に見える荘園名有明海の湾奥西岸,鹿島市・太良【たら】町・嬉野【うれしの】町に広がりほぼ藤津郡の全域を荘域としたと思われる正応5年の惣田数注文には「藤津庄六百丁」とある(河上神社文書/佐史集成1)年未詳の坊門家清申状に「法勝寺領肥前国藤津庄志保田方并嵯峨照明寺等事 右,当庄者,為当家累代之地,信家卿領知之刻,未処分而令早世之処,信顕入道不得基譲恣一身彼遺領等悉令押領之刻,信兼卿就訴申,弘安以来代々被経御沙汰畢,随而 伏見院御代延慶二年又為雅俊卿奉行被尋下信顕入道之時,不得信家卿譲之条,忽露顕之間,被究御沙汰淵底,去応長元年七月八日彼遺領内藤津庄信兼卿且預安堵 勅裁畢,爰信定朝臣号信顕入道猶子於関東致非分沙汰掠申子細之間,家清令参向関東為問住(注)所信濃左近大夫貞連(太田貞連)奉行申披所存之時,信定朝臣称故洞院左府(洞院実泰か)返状構出謀作之条,依令露顕可被罪科之旨,都鄙御沙汰厳密之刻逐電畢,而謀書人信定朝臣子息信任又帯信顕入道譲改篇目掠給大学(覚)寺殿裁許令領知之旨,就承及家清欲訴申之処,彼信任令 先帝(後醍醐天皇)御共逐電畢,此上者弥信家卿遺領等家清之外誰人可致管領哉,而今幸奉逢有道善政之上者,尤任理運可蒙 勅裁者也,且号一門之仁悉 先帝奉公之輩也,家清一身者致当御代奉公奉待御 治世之上者尤預御哀憐,且依長勅裁被下安堵 院宣,且為関東請所之地上者,任先例被成下 院宣於関東全知行弥欲抽無弐忠勤而已」とある(仁和寺文書拾遺/史学雑誌68-9)これは藤津荘に関する新史料である申状を提出した坊門家清は,家領である藤津荘志保田(塩田)方相伝をめぐって一門の信任(坊門信定の子)と争っているそもそも坊門信家が早世し,未処分(生前に譲状を認めず死去)であったため,信顕と信兼が一族で遺領相論を起こし,それが信定の代になって関東の幕府へ持ち込まれ,結局,信定は謀書を構出し,露顕して「謀書人」となったが,信定の子信任が再び訴訟に及んだため,家清がその非を訴えたものである「先帝」とあるのは後醍醐天皇であり,信任はともに逐電に及んでいるが,これは元弘の乱のことと思われるからこの申状も元弘元年9月以降のものと推定される藤津荘が法勝寺領とあるのは注目してよいこのほか,弘安4年蒙古合戦勲功に関し,肥前国藤津荘大村家信に,神崎荘の田地3町が配分されている(東妙寺文書/佐史集成5)この大村氏は「肥前国府知津之庄惣追捕使」伊佐平次兼元の子息として生れた覚鑁上人興教大師と同族と考えられ,伊佐平氏の流れをくむ者で,鎌倉期に当荘地頭職に補任されたのであろうとされる下って「九州治乱記」応永18年卯月29日条に小城【おぎ】の千葉氏が大村家有と戦い,藤津に侵攻したことが記されており,さらに島原の有馬氏と相対した大村氏は次第にその勢力が衰えたものといわれている

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KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7446579