老手村(中世)


平安末期~南北朝期に見える村名肥前国彼杵【そのぎ】郡彼杵荘のうち生手とも書く治承4年11月28日付惣政所僧某・公文僧某定使職補任状写に,「下 生手・手隈住人等 定遣 定使職事 平包守」と見えるその後文治2年8月13日,包守の子包貞は鎌倉幕府から老手・手隈両村地頭職を安堵され,肥前国御家人となった包貞の後は文治5年2月8日付源頼朝下文写によれば,その弟兼信が老手村地頭職を相伝した兼信は福田平次と号し,同氏は以後福田氏を称するこれに伴い老手村は福田村(福田・福田郷とも見える)と改称されたその時期について,文応元年11月6日付平兼俊譲状写に「譲与 八(衍カ)嫡男四郎所 早可領知福田手隈村之事」と見え,これ以前であったことがわかるまた,元弘3年11月4日付後醍醐天皇綸旨写によれば,福田兼信に「老手・□(手カ)隈両村之職」を安堵されたのに対して,兼信は,同年12月日付の申状写によると,「福田村地頭職」の安堵を求めており,「理慶(兼信の法名)当知行地手隈・老手村〈今日号福田〉」と見えるなお,延宝7年9月28日付福田十郎左衛門長方由緒書写に,「福田村ハ兼盛ヨリ兼俊代マテハ老手浦ト云リ,福田四郎兼重代ヨリ改福田ト也」とあり,老手村の地名は以後消滅したと考えられる(以上,福田文書/中世九州社会史の研究)彼杵荘西部にあって角力灘に臨み,背後は山地よりなり,小江・大浦両川流域近くに位置した今日その地域を明確にすることはできないが,ほぼ現在の長崎市福田本町を中心とする一帯であるとみられる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7447578 |