細工町(近世)


江戸期~明治初年の町名八代【やつしろ】城下八代町の一町で町人町八代城の南に位置する町名は当町に細工職人が多かったことに由来当町は本町の枝町で,文化元年の町屋配置図によれば,本町の町筋である九日町に続いて下魚の棚(魚屋町)があり,さらにその西が当町となっており,東西に通じる町筋で,本町・釜屋町(金屋町)・桶屋町・下魚の棚と合わせて家数186(八代市史)安養寺前から西に成立した小さな町組道の南側にある浄土真宗本願寺派安養寺は八代城代加藤右馬允正方老母妙慶禅尼を檀越としたといい(肥後国誌),その須弥壇は八代城天守閣を模して作られた道の北側,町家の裏側に浄土宗盛光寺があり,安昌院を付属する細川三斎の御女(幼名長姫)が前野出雲守長重に嫁し,文禄4年長重生害ののち剃髪,慶長8年に卒し,安昌院の名はその法号に由来する(同前)現在本町3丁目にある盛光寺保管のもと安昌院本尊木造阿弥陀如来座像は藤原期の作風を示し,県重文明治初年西本町の一部となるなお明治期における八代の文芸の中心ともいうべき時昌堂が当地にあった下魚の棚(魚屋町)を含めた地は細工町と通称された現在の八代市本町3丁目にあたる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7451752 |