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波多村(中世)


南北朝期~室町期に見える村名飽田【あきた】郡鹿子木東荘のうち葉田・羽田とも書いた康暦3年6月1日のよしかつ譲状(詫摩文書/県史料中世5)に「おなしきはたのむら,むしや一丸にゆつりおくところしつなり」と見え,「よしかつ」は子松一丸に譲与した当村を弟武者一丸に譲りなおしている鎌倉末期~南北朝期と推定される年月日未詳の鹿子木東荘本家大覚寺殿御領注文(同前)には,「一,中分所々事」として「一所 はた名〈たくまほんりやう くまとく〉」と見え,異筆で「この内地頭半分」という注記があり,「はた名」のうち半分が下地中分により,地頭詫磨氏の本領となったものと思われるその後,応永6年1月14日の肥後国鹿子木東荘坪付に「一所 八町 なりよし名〈この内五町つる 四町はた 三町六たう名〉」とあり,同じく卯月5日の肥後国鹿子木東荘坪付にも「一所八町〈四町はたひやくしやう一人〉」とある(同前)また同年3月5日の氏範施行状(同前)には,「成吉名波多村」と見え,応永5年10月13日の御教書の旨に任せて,当地などを詫磨別当代官に打ち渡すよう命じている戦国期に入ると,天文4年の年紀を有する年月日未詳の鹿子木親員知行目録(鹿子木文書/県史料中世1)に「四町 葉田」と見え,鹿子木氏の所領であったが,同19年に同氏が隈本城を退いてからは大友氏領となったと思われるなお戦国末期と推定される年月日未詳の大友義統の袖判を有する山上衆知行目録写(内田文書/県史料中世2)には「飽田郡之内羽田 一所四町 緒方七郎左衛門尉」と見え,山上三名字衆のうち緒方氏の所領となっている江戸期には鶴羽田村が見え,現在の熊本市鶴羽田のうちに比定される

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KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7453504