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飫肥藩(近世)


江戸期の藩名日向国那珂郡飫肥に居城し,那珂・宮崎両郡内を領有した外様中藩中世末に日向国に勢力を広げた伊東氏は,天正5年島津氏によって日向を追われるが,天正15年豊臣秀吉の島津氏制圧に戦功をあげ,伊東祐兵が那珂郡飫肥,宮崎郡曽井・清武など日向国内14か所1,736町を宛行われたこの地は,石高にして2万8,000石といわれるが,文禄2年の検地により3万6,000石を検出し,石高別による近世的基礎となったこの検地は豊臣秀吉の朝鮮出兵を契機としたものであったが,この高では朝鮮出兵時の一隊の旗頭になれないので,文禄4年私的に検地を行ったものの4万500石にとどまり,5万石に達しなかったその後,祐兵没後に家臣が藩の石高を6万石と偽って報告したため大問題となる事件も起きたいわゆる秀吉の取立て大名であるため,忠勤に励むことを急いだことによるものであろうこのことは,のちの徳川幕府においても同様で,出兵や普請などいわゆる軍役動員は回数も動員数も飛びぬけて多かったともあれ,慶長9年に三たび検地が実施され,5万7,086石を検地高とし,石高制による近世的体制を確立したこれは古検と呼ばれ,元和3年将軍徳川秀忠から5万7,080石余の朱印状を受けることになるなお,のち寛保2年財政窮乏打開のために4度目の検地が行われ,6万4,523石余を検出し,これを新検と称した伊東祐兵は,はじめ宮崎郡曽井(現宮崎市古城)に入ったが,ほどなくして飫肥城に移った飫肥は,父義祐が経略して一時祐兵が在番していたという由緒があり,いわば本領を安堵される形となった祐兵は,慶長5年10月11日関ケ原の戦への去就に迷うなかで他界し,世子祐慶が後を継いだが,日向諸藩がすべて西軍に属したのに反して当藩では関東方に忠勤をぬきんでることに決し,延岡高橋氏の宮崎池内城を攻めおとしたのをはじめ1年近くも周辺諸藩をおびやかしたこの働きで江戸幕府においても飫肥が伊東氏に確保されたのであるこうして伊東氏は,祐兵以後,祐慶・祐久・祐次(祐由)・祐実・祐永・祐之・祐隆・祐福・祐鐘・祐民・祐丕・祐相・祐帰と14代にわたって在封し,明治維新に至ったこの間,3代藩主祐久が寛永13年弟祐豊に3,000石(那珂郡南方村・松永村)を,4代祐次が明暦3年弟祐春に3,000石(那珂郡東弁分村のうち1,078石余,北方村のうち1,921石余)を分知したのち元禄2年,祐豊分3,000石は幕府領となり(祐豊家は幕府の蔵米から支給されることになる),領内に南方村・松永村の2か村からなる幕府領をかかえる形となったこの結果,当藩の領知高は5万1,086石となるただし,祐春分知分の支配の実権は宗家が掌握しており,実態は祐春分知永分も含めた5万4,086石の所領であった歴代藩主のうち,5代祐豊は,油津運河の開削,飫肥城の改修,再燃した牛ノ峠境界論所の勝訴,逃散の鎮圧,有力重臣の排斥,盆踊りの許可,郷士制の設置,蕃薯(サツマイモ)の奨励などに活躍して中興の主と仰がれるまた,藩財政再建に重要な役割を担った飫肥杉の増植は10代祐鐘の時のことで,杉方の石那実右衛門の建言により推進され,そのあとを継いだ野中金右衛門の時にいっそう発展することになった江戸幕府における当藩主の家格は,5万1,000石の外様大名で,官位は従五位下の朝散大夫,江戸城中では柳之間詰めで大紋着用であった伊東家歴代の墓所は,日南市飫肥報恩寺にある飫肥城は,中世以来の名城で,酒谷川河岸の小高い丘地にそびえる広大な城郭で,本丸・松尾・中の丸・今城・西の丸・北の丸・松の丸・小城・中の城・宮藪・八幡城に分かれていたが,貞享元年11月6日の大地震で本丸まで損壊したため,幕府の許可を得たうえ,本丸・中の丸・今城の地勢を削って平坦にし,3区を合わせて1区とし,犬の馬場に高さ1丈8尺(約4.5m)の石垣を築いてその内側に本館を建てることとした改修工事は同3年8月に着工され,8年の歳月を要して元禄6年5月に完成し,これにより中世の城は面目を一新して近世の城郭となった現在,城跡は,国重要伝統的建造物群保存地区である飫肥町並み保存地区の一部となって当時の面影を残している所領は,寛文4年の朱印状によれば,那珂郡のうち39か村・4万2,573石余(恒久・田吉・郡司分・隈野・加江田・鏡州・酒谷・吉野方・楠原・板敷・星倉・戸高・平野・西弁分・隈谷・北河内・郷原・大藤・殿所・益安・平山・風田・宮浦・富土浦・伊比井・塚田・大窪・萩之嶺・毛吉田・上方・下方・橋口・谷口・中・津屋野・潟上・脇本・熱波の各村および東弁分村の内),宮崎郡のうち4か村・8,512石余(加納・木原・今泉・田野)の合計43か村・5万1,086石余(寛文朱印留)これらの村々は,清武郷(宮崎郡加納・木原・今泉・田野,那珂郡恒久・田吉・北方・郡司分・南方・熊野・加江田・鏡州の12か村)と郷を除いた村々からなる飫肥本領(飫肥郷)とに2大別され,清武中野に置いた地頭所には家老級の重臣による清武地頭が配されたまた,飫肥本領を細分して6郷4浦に分割したともいい,清武・飫肥・酒谷・郷原・北河内・南郷の6郷と油津・大堂津・外浦・目井津の4浦にそれぞれ地頭が置かれた戸口は,天保5年に飫肥2万7,130人(男1万4,651・女1万2,479),清武1万6,091人(男8,766・女7,325)の合計4万3,221(男2万3,041・女1万9,804),明治2年に飫肥6,006戸・3万1,242人(うち町人131戸・768人,百姓2,361戸・1万1,731人),清武3,898戸・1万7,043人(うち町人11戸・40人,百姓773戸・3,442人),合計9,904戸・4万8,285人(近世飫肥史稿)「御検地古今目録」によれば,慶長10年の古検高・反別は,飫肥3万3,049石余・2,773町余,清武2万4,036石余・2,533町余の合計5万7,086石余・5,307町余,寛保2年の新検高・反別は,飫肥4万1,017石余・2,800町余,清武2万3,506石余・2,040町余の合計6万4,523石余・4,849町余(日向国史下)藩の職制は,家老が最高職で,月番で交代する中老がこれを補佐した家老とともに政務を吟味した相談中は,約10人から構成され,大目付や郡奉行,山方奉行などの重職を兼務した以上の役職を中心に構成される会所が藩の最高行政機関で,その下に惣役所があり,諸般の政務を処理する役職や役所が置かれた地方支配は,相談中から任命される郡奉行(郡代)が統轄し,中小姓の家格から任命される代官がこれを補佐し,さらに各地頭がそれぞれの所属村を管轄した村には庄屋が置かれ,たまに2~3か村で1人の割合で大庄屋が置かれることもあったなお,中世における仇敵島津氏(鹿児島藩)領と隣接していることから,島津氏に備えて浮世人(半農半士で無禄)という軍役集団を特設したが,この浮世人も行政の末端に存在して地方支配に一定の役割を果たした貢租は一般的に5割は収納させ,田租は12月限り,畑租は翌年6月限りで収納させた田の年貢は,本田・配当田・新田知行配当田・持式新田・新田の5種類に分けられていた俵米の検査は厳重で,25俵につき2俵を抽出し,1斗枡に斗掻をかけ,籾5粒・赤米5粒以上が入っていると許されなかった1俵は4斗入りで,俵装はだいたいにおいて熊本藩を範したという田のうち本田と配当田については地割が実施され,毎年春秋2回と5~10年ごとに総割替えが行われた本田は,直接藩庫に収納される田で,地割は藩が人別の割の制を設けて実施し,まず村の2割を庄屋が割付け耕作し,残りを百姓に割付けたが,割付面積は18~39歳の男子(本役)に1反2畝,14~17歳と40~50歳の男子(半役)に8畝,51歳以上の男子および女子(徒)に各5畝とし,余りを予備の田として浮田と呼んだ配当田とは39石以下の藩士に配当した田のことで,配当田の管理や10年に1度の総割替えは惣役所下の配当方役が担当したこの飫肥藩の地割制度を古来の均田法と類似したものとして評価したのは佐藤信淵で,その著「経済要録」(文政10年刊)において,「今の世に当つて財用富贍をなせる侯国」を23藩あげたなかに当藩を入れ,「ひとり日州の飫肥領は古来制度厳粛にして,田畑を始め山林・広野にいたるまでみなことごとく国君の有にして,絶えて百姓にゆだぬることなし,ゆえに一時富をいたす者もありといえども,他の産業を兼併することあたわず,これゆえに秀れて富豪なる家もすくなく,また飢寒にせまるほどの貧民もなし,これ漢土の夏・殷・周三代の世の井田の法を去ること遠からず,実に国家を経理すべき本体にて,珍重すべきの制度なるかな,然れどもただその田畑・山林等を豪民に兼併させざるのみにて,富国安民の経済道を講ぜざるときは,国君にも百姓にもともに不便利なる法なり,あゝこの国にかくのごとき善法の存する上は,よく経済の要道をおさめてその国事を経営せば,土壌広からずといえども天下第一の善政国なるべし」と述べている隣接領との番所は,鹿児島藩と隣接する西側には北河内村山仮屋と酒谷村白木俣,高鍋藩領の串間(福島)と隣接する南側には萩之嶺村猿ケ内,幕府領宮崎や延岡藩領宮崎と隣接する北側には伊比井村鶯巣に設置された領内は耕地が少なく,農産物も貧弱であったが,山林と海産物資源には恵まれていた藩財政の窮乏にともない,藩政の重点はこれらの資源を開発する殖産興業に積極的になる寛永年間の清武新溝開発や慶安年間の外ノ浦埋立干拓による新田開発,村産物運送のための貞享年間の港湾整備などの事業を経て,やがて中・後期には藩営の専売制が開始され,専売物産は和紙・楮皮・木材・椎茸・木炭・鰹節・樟脳などがあったとくに有名なのは木材,なかでも飫肥杉と称される杉である飫肥地方は,南国に特徴的な高温多雨のため,材木の生育がきわめて良好であったおそらく近世以前から北郷北河内地方を中心として自然に杉が生い茂っていたと思われるが,元和年間に家中が合議して藩財政建直しの施策として植林が行われ,杉を第一とし,檜・松・楠などの造林が行われるようになった飫肥杉は,よく水に耐え,弾力性が強いので,船材をはじめ木橋用材などに最適であったこの頃は,山岳地帯から伐り出された杉材は,酒谷川や広渡川を筏流しによって飫肥城下近くに集められ,両川の合流によって梅ケ浜に下ろし,そこから尾伏岬を迂回して油津港に回漕されていたが,たいへん煩雑なため,広渡川河口から油津に通じる堀川を開削することが計画され,天和3年に着工,貞享3年3月延長15町,幅12~13間,深さ2~4尋(1尋は約1.5m)の堀川が完成したこれは,のちの飫肥林業の隆盛の基礎条件を作りだしたものであった享保年間にいたるまでの約100年間は,「杉は殿様の御用物」といわれてみだりに伐採できず,民間の造林もまだ少なく,藩の需要さえ十分に満たすことができなかったといわれるが,享保年間頃「杉方部一法」と呼ばれる5公5民の分収法が採用され,天明~寛政年間にはこの分収法がさらに整備されて5公5民の「二部一山」のほか,1公2民の「三部一山」や2公8民の「五分一山」などが設定され,次第に活況を呈するようになった造林事業は領民の労働力を藩有林に投入する方法で行われたが,その収益の2分の1や3分の1,4分の1などを領民に与えるというのが分収法で,これが領民の造林意欲をかきたてることになったのであるこの造林事業でとくに有名なのは,杉方の石那田実右衛門が寛政1~5年に吉野方の元野【もとんの】(日南市)で行った植林で,天明飢饉の救済策として,また美しい林相をもつ杉林として有名になったさらに飫肥の林業を発展させたのは植木方の野中金右衛門で,30歳であった寛政8年から弘化3年80歳で没するまでの50年間,まさに寝食も忘れて林業に精進した金右衛門の指導による植栽は何千万本にものぼるといわれ,大木場【おおこば】といわれる1万株以上の植林は124か所を数えたほどであるなかでも北河内村長尾の杉林は全国でも稀有な規模といわれ,文政7年の挿穂杉は102万株,同8年には40万株に及んだというこうして文化・文政年間には飫肥林業の最盛期を迎え,藩有の木場3,500余か所,民有の木場8,000余か所を数えた飫肥杉とともに有名なのは日向和紙の殖産で,専売物産のなかでもっとも収益が高く,文政4年の大坂売捌高は銀416貫20匁,金にして約6,900両になり,材木山1か年の生産額を上まわり,また植付面積も天保9年には最高の1,167町余を記録するほど活気づいている山林資源の開発にもかかわって藩政史上重大な事件となったのは,牛ノ峠をめぐる当藩と鹿児島藩との境界争いで,「牛ノ峠境界争論」と呼ばれる牛ノ峠の西北は鹿児島藩領(都城領),東南は飫肥領に属していたが,寛永4年の春,藩主祐慶が牛ノ峠の東南の山中で船板を伐り出させていたところ,都城三股の者たちが鹿児島藩領内であると主張し,張番を置いて船材を渡さなかったことに端を発した同10年には幕府の巡見使が実地検証し,鹿児島藩の言い分を否定したので一応の解決をみたが,延宝2年に再燃,同3年には関係者が江戸評定所で対決し,同年末飫肥側の主張が認められ,ようやく解決した48年間にわたるこの争論は,飫肥藩が拠って立つ山海の資源に深くかかわる重大問題だったのである百姓一揆はきわめて少なく,貞享2年の田野郷佐野・八重両村民77人の鹿児島藩都城領への逃散,寛政年間の田野郷民の御用木炭の駄賃値上げを要求する強訴未遂事件,慶応3年に頼母子講の掛不足の増加に不満を抱いて城ケ崎(宮崎市)で起こした騒擾のわずか3件が記録されているにすぎない飫肥の交通は概して不便で,陸路は山仮屋道(飫肥―郷之原―清武―佐土原【さどわら】),牛ノ峠道(飫肥―酒谷―都城),七浦道(飫肥―宮浦―内海―赤江),榎原道(飫肥―福島),市木道(飫肥―外ノ浦―市木)の5道があり,山仮屋・陣之尾・鶯巣に関所があった藩主の参勤交代路は,瀬戸内海を海路で大坂へ向かったはじめは油津乗船であったが,宝永年間に日向灘の内海【うちうみ】沖で御用船が遭難して以後は,山仮屋道の陸路をとって細島港(現日南市)から乗船した飫肥地方では七夕を忌む風習があるが,これは正平3年に伊東祐持が検非違使の命をうけて上洛し7月7日に京都で死去したことに始まると伝えられているまた,伊東家で栗毛の馬と籬の三つ縁を忌物とするのは,文明17年に伊東祐国が島津氏との戦いにおいて楠原報恩寺のあたりの「城戸の籬三つ目」で乗っていた馬が越えられずに討死したことによるという飫肥城下では盆踊りが盛んで,寛永年間から町方で催されていたが,宝永4年から元治元年までの間は城下と清武の武士にも踊りを公許した町方の歌舞伎踊りは現在も伝承され,昭和37年泰平踊りの名で県無形民俗文化財に指定された江戸期から明治中期頃までは飫肥地方の少年たちが行っていた四半的(正座の姿勢で弓を射る競技)は,次第に農民の間にも普及し,現在では飫肥のみならず県内,さらに南九州一帯に広がり,各地で競技大会が開催されるほどになっている学問については,江戸前期には伊東氏の歴史「日向記」が完成し,飫肥藩学の興隆に指導的役割を果たしたが,藩学への関心が高まったのは中期以降で,11代藩主祐民はとくに学問を好み,享和元年城下八幡馬場に学問所を建て,天保元年には藩校振徳堂としたまた,文政10年安井滄洲・息軒父子らにより清武に郷校明教堂が設立されたこのなかから,安井滄洲,その子で昌平黌教授となった安井息軒,「日向地誌」の大著を論述した平部嶠南,落合双石,阿万豊蔵などが輩出した慶応3年5月,宮崎・那珂両郡内の幕府領8,944石余が飫肥藩預かりとなる明治初年の「藩制一覧」によると,草高6万595石余,新田畠改出9,509石余,正租は現米2万4,238石余,金1万8,887両余,雑税は現米484石余,金6,970両(松・杉・楠・樫・椎茸・樟脳・砂糖・鰹節・紙などの税),戸数9,904(うち士族1,019・卒1,339・浮世人3,114・社人77・山伏139・寺院81寺),人口4万8,285(男2万4,957・女2万3,328)明治4年廃藩置県により飫肥県となる

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KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7459899