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佐土原藩(近世)


江戸期の藩名日向国那珂郡佐土原に居所を置き,那珂郡・児湯【こゆ】郡のうちを所領とした外様小藩天正5年島津義久が伊東氏を退けて日向国を平定すると,弟家久を佐土原に置き,同15年の豊臣秀吉の九州仕置後も引き続き安堵された同年家久は病死し,子の豊久が継ぎ,同16年秀吉はあらためて豊久に佐土原979町余を宛行ったが,豊久は慶長5年関ケ原の戦で西軍に参加して戦死し,2万8,600石余の所領は幕府に没収された慶長8年大隅国垂水の城主島津以久(豊久の従祖父)が佐土原に3万石を与えられ,ここに近世の佐土原藩が成立した島津氏は以久のあと,忠興・久雄・忠高・久寿・惟久・忠雅・久柄・忠持・忠徹・忠寛と11代にわたって約270年間在封し,明治維新に至るこの間,元禄12年の惟久の代に,佐土原はもと城地であったからと城主に列せられた藩領は,元和3年の朱印状で那珂郡内1万2,211石余と児湯郡内1万7,859石余で,合計3万70石余寛文4年の朱印状でも同高で,村数は那珂郡のうち10か村(上田島・下田島・袋広瀬・石崎・塩路御手洗・山崎・上那珂・下那珂・広原・新名爪),児湯郡のうち11か村(山田・三才・荒武・妻万・鹿野田・平郡・三納・加勢・藤田・富田・新田井倉)である(寛文朱印留)元禄3年,5代藩主惟久の時に前藩主久寿の番代としての功労に報いるため,幕命により久寿に3,000石を分知した所領は,那珂郡のうち塩路(塩路御手洗村が改称)・芳士(新名爪村のうち)・島之内(広原村のうち)・山崎の4か村久寿は式部少輔と称したため,この分知領は式部少輔領とも呼ばれ,明治維新まで存続したこの結果,佐土原藩領は那珂郡9,211石余・児湯郡1万7,859石余の計2万7,070石余となったはじめは伊東義祐の築城した佐土原城におり,慶長16年冬には忠興が佐土原城を修補し,天主台を設け櫓や塀,門を造ったというが,広大な城だったため寛永2年山下に移ったという(日向国史下)のち明治3年下田島の広瀬に移転する宗藩の鹿児島藩と同じく外城制度をとり,領内には佐土原城下のほかに都於郡【とのこおり】・三納・三財・新田【にゆうた】・富田【とんだ】の5か所に外城を置き,各外城には藩の重臣が地頭として任命された各地頭役所の所在地は麓(府下)と呼ばれ,各外城の武士団は都於郡衆中・三納衆中などと外城名を冠して総称され,衆中は士分以上の者から噯【あつかい】と称する職を選任して統轄され,各衆中は数組に分かれて各組には組頭を置いた地方支配は,郡奉行4人が領内を4地区に分けて支配し,また山奉行1人がいた村は名【みよう】とも呼ばれて庄屋が統轄し,名の下には村(一般でいう小村にあたる)があって小触がおり,この村を構成する門【かど】には口才【こうざい】がいた鹿児島藩同様な門割制度である佐土原城下,都於郡町,妻町には別当が置かれている藩士は7つの家格に分けられ,御一門家・寄合・騎馬・中小姓・歩行(従士)・小頭・足軽があり,ほかに医師などの御口之者があった職制は,これらの家格と関連して編制され,11の職位に大別されて各役職があり,職位と役職は家老--勝手奉行・地頭などを兼ね寄合格,若年寄--家老と同じ職と大目付を兼ね寄合格,番頭--寺社奉行・勘定奉行・軍賦奉行・教主・頭正を兼ね騎馬格,用人--側用人・表用人・留守役・者頭(物頭)・講主代・舎長・目付などを兼ね騎馬格,諸奉行--助教・厩別当・郡奉行・山奉行・鷹奉行・町奉行・船奉行・囃子奉行・蔵奉行・目付添役・普請奉行・同添役・学頭・代官などで騎馬格,奏者番(御取次書)--記録方で騎馬格,祐筆--生頭・進達・小納戸・側役で騎馬格,横目--近習・筆者・授読・表小姓・糾明方で中小姓格,役人--普請方・宗門方・小組頭・触次・徒行目付・書役・郡方・井手方・山方・植木方・屋敷方で歩行格,付役--同心頭・触役で小頭格,付役--同心・小人・中間で足軽格である(佐土原町史)万延元年の分限帳による家格別人数と知行高合計は,一門家2人・1,000石,寄合7人・2,450石,騎馬72人・4,869石,中小姓150人・2,647石,歩行343人・2,428石,小頭154人・764石,足軽479人・1,094石,御口之者40人・132石の総計1,247人・1万5,384石であったなお,佐土原藩では武士にかぎらず,社人・僧侶・職人など少しでも禄を保有する者を領主と称し,万延の分限帳では領主数を2,238人としているので,上記の1,247人を差し引いた残りの991人が非武士の扶持人であった前期には藩主後継などをめぐって御家騒動がおこっており,その最大のものは重臣松木氏による松木騒動で,貞享3年宗藩鹿児島藩の出兵によってようやく落着した領内の検地は,大きく分けて4回実施されており,元和3年の検地および同9~10年の藩士の給地の検地,明暦元年の検地,延享2年および寛延2年の検地,鹿児島藩の出役の指導で行われたため薩摩検地と呼ばれる安政4年~文久2年の大がかりな検地である領内の村落構造は,鹿児島藩にならって門割制度がとられ,12名前後から20名前後が1門とされ,これに3~6人の門百姓がつき,門の頭を門頭【もんず】,成員を門子【かどこ】といい,藩に直属する蔵門と知行取に給される給地門があった給地門の知行主(領主)は,50石に2門,100石に5門というふうに配され,知行主と門百姓には主従のような関係が生じた蔵門では数年ごとに割り替えて耕地の公平を図った門百姓の資格は13歳以上50歳までの用夫と呼ばれる男性で,次男以下の者は家での5年間の仕事を経験した上で,所帯がもてるようになってから門地の支給を行った税には,貢租のほかに公役(無償労役),殿役,雑税などがあった貢租の租率は5公5民または4公6民であったが,藩財政の困窮のため江戸後期になると6公4民または7公3民になったという知行地の場合,知行主はその中から1名につき6升2合の割合で反米として藩に納めた門百姓のうち蔵百姓は,城普請や川井手の工事などの公役(年に1人50日)が課せられ,また藩主や藩庁の生活に必要な物資を納入する殿役が強制されたさらに庄屋に対する無償労役もあった知行地の百姓は,蔵百姓に対応する労役や物資納入が知行主から強制されている藩財政を増加させるための専売品には紙と蝋があり,天保4年に御手漉役所・楮役所,安政4年に櫨役所が設けられている牧には長園牧と新田原【にゆうたばる】牧があった百姓一揆は,元禄14年三財の農民8戸・43人が鹿児島藩領籾木に逃散した例が1件知られるだけである明治初年の「藩制一覧」によれば,高2万7,070石余,ほかに6,375石余,正租は米1万7,055石余,大豆3,605石余・塩50石余・銭9,108貫924文,諸税は紙800丸(1丸6,000枚)・半切紙500丸(1丸1万1,000枚)・生蝋3,000斤・銭5,329貫124文,戸数・人口は,士族854・3,778,卒883・3,133,庶民5,171・1万8,666,社家209・806,寺院8・37明治4年廃藩置県により佐土原県となる

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KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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