島津荘(古代〜中世)


平安期~戦国期に見える荘園名日向・大隅・薩摩3国にまたがる正応元年の島津荘官等申状には「島津本庄者,万寿年中以無主荒野之地,令開発,庄号令寄進 宇治関白」とあり,万寿年間に開発され,宇治関白藤原頼通に寄進されたという(旧記雑録前1)建暦3年4月の僧智恵申状案によれば,開発主体者は大宰府大監平季基である(長谷場文書/旧記雑録前1)平季基は万寿3年3月から翌年までは,従五位下大監として大宰府に在任していた府官であり(類聚符宣妙),「日本紀略」長元3年正月23日条には「召大宰府大監平季基,令候左衛門陣」とあり,長元年間には京都に出仕しており,おそらくこの時期に関白頼通に寄進したものと推定される(国史大系)ところで,当荘は日向・大隅・薩摩の3国にまたがる荘園で,平安末期から鎌倉初期には約8,000町という全国第一の荘園に発展するが,成立当初は日向国の一荘園であった島津本荘の地は遺称地がなく,正確な位置は不明であるが,「延喜式」の島津駅が置かれたと推定される現在の都城市郡元を中心とする一帯に比定する説が有力なお,鎌倉期~南北朝期に日向国に島津院が見え,建久8年の「日向国図田帳写」には「島津破(院カ)三百丁 右同(諸県)郡〈内地頭同人(惟宗忠久)〉」と見え,諸県【もろかた】郡に属していたことが知られる建久図田帳によれば,当荘は基本的には一円荘と半不輸地の寄郡から成立しているその内訳は日向国で一円荘2,020町(北郷・中郷・南中郷・救仁郷・財部【たからべ】郷・三俣院・島津院・吉田庄),寄郡18門町(新名・浮目・伊富形・大貫・新納院・宮頸・穆佐院・飫肥【おび】北郷・飫肥南郷・櫛間院・救仁院・真幸【まさき】院)大隅国で新立荘750町(深河院・財部院・多禰島),寄郡715町8反3丈(横河院・菱刈院・串良院・鹿屋院・肝付郡・禰寝北俣・下大隅郡・姶良西俣・小河院内百引村・同永利・曽野郡永利・筒羽野)薩摩国では一円領635町(伊作郡・日置北郷・日置南郷内外小野・和泉郡),寄郡2,130町3反(市来院,満家院,河辺郡,高城郡若吉・時吉・得末・吉枝・武光・三郎丸,東郷別符内吉枝・若吉・時吉,薩摩郡内時吉・永利・吉永・火同九,宮里郷,入来院,祁答院,牛屎院,山門院,莫禰院,甑島,智覧院,揖宿院,給黎院,谷山郡,鹿児島郡,頴娃郡)である荘の総田数は8,167町余で,これは日・隅・薩3国の田数の5分の2に相当する寄郡については,いつどのように成立したかは不明であるが,久安3年2月9日の伴信房解によれば,入来院や薩摩郡は寄郡になっており,薩摩国における国衙領の寄郡化はこの頃にはほぼ完了していたのであろう(入来院文書/平遺2601)おそらく島津荘が日向から大隅・薩摩へと発展したのも,これ以前の11世紀末から12世紀初めの時期と推定されるところで,先にふれたように島津荘の領家は摂関家であり,その下に預所が置かれた現地の支配機構としては荘政所があったが,承安5年8月14日の島津荘政所下文によれば,荘政所は2人の別当執行と8人の別当から構成されている(富山文書/日向古文書集成・旧記雑録・平遺3697)別当職は開発領主平季基の姻族である伴氏や藤原氏が世襲するようになり,平安最末期には,薩摩国では在庁伴信明が島津荘薩摩方を代表する別当となっているので,日向方や大隅方でもその方を代表する別当がいたのであろう荘政所別当は在庁官人が兼帯しており,それぞれの国衙と権限・機構の混乱・混同があった荘の下部組織である各郡院では,寄郡には弁済使,一円領には下司が置かれ,弁済使は郡司が兼帯している点でも荘園に先行する既存の国衙の行政組織を吸収し,成立したことがわかるさらに弁済使の下には小弁済使・検校・沙汰人などの荘官も存在した次に伝領関係をみると,島津荘を含む摂関家領は藤原忠実によって惣領されるようになったが,保元の乱の敗戦により忠実の立場が苦しくなると,島津荘は忠実の女である鳥羽天皇の皇后高陽院泰子に譲って,その保全を図ったその後,島津荘などの高陽院領は忠通の子基実に返ったが,基実の早死後,平清盛は基実の室平盛子(清盛女・白河殿)を介して,摂関家の家司藤原邦綱と通謀して実質的には平家領にしてしまった源平争乱に際し,再び高陽院領は源頼朝によって処分される危機に直面したこの頃の領家は邦綱の女三位大夫藤原成子(一乗院実信の乳母)であったこれが承久の乱の前後に近衛基通の子である興福寺一乗院主実信に譲られたこの結果,島津荘の本家は近衛家,領家は南都一乗院になったこのように中央政局の危機を回避するために,島津荘の伝領も複雑な過程をたどらざるをえなかった(鹿児島市史)次に,当荘と島津氏についてであるが,建久図田帳によれば,「右衛門兵衛尉」すなわち惟宗(島津)忠久がこの広大な荘園の惣地頭として見える忠久はすでに元暦2年8月17日には源頼朝から島津荘下司職に任じられており,文治2年4月3日までには荘地頭(惣地頭)職に補任されて,さらに建久9年には薩摩・大隅・日向3国の守護になったと思われる(島津家文書/大日古)忠久の出身は不明な点が多く,頼朝落胤説もあるが,彼は惟宗姓であり,惟宗広言の子であり,近衛家の所従とする説などがある忠久は「吾妻鏡」建仁3年9月の条によれば,比企の乱に縁座して大隅・薩摩・日向の守護職を収公されているが,同時に島津荘の惣地頭職をも失ったとみられる(国史大系)その後,薩摩国についてはほどなく復され,建暦3年7月10日の将軍家政所下文によれば,島津荘内薩摩方の地頭職は戻されている(島津家文書/大日古)嘉禄3年6月18日,忠久は鎌倉で没し,その職は子息の忠義(忠時)に譲られる同年10月10日には左衛門尉惟宗忠義に越前国守護職,島津荘内薩摩方地頭守護ならびに十二島地頭職その他を安堵する将軍藤原頼経袖判下文が出されているさらに,道仏(忠時)は四男久経を惣領として所職等を譲っているが,その内容は島津荘薩摩方地頭職と十二島地頭職で,大隅・日向方の地頭職は回復できなかった(同前)それでは,忠久が当荘の地頭職を改易されてから島津荘地頭職はどうなったのであろうか詳細は不明であるが,諸史料からみて,三国守護職は北条氏の手中に帰したと考えられ,その兼帯職であったとみられる島津荘地頭職は北条氏に与えられた可能性が高い大隅方・日向方は北条氏が相伝したものと推定されるのである建治2年8月の大隅国在庁石築地役配符には「島津御庄〈領家近衛殿 地頭尾張守殿〉」とあり,名越公時が大隅方の地頭であって,その後,元弘年間に至るまで北条氏のうち名越氏に相伝されている(九州諸国における北条氏領の研究/荘園制と武家社会)一方,足利尊氏・直義所領注文には「同(日向)島津庄〈守時〉」と見え,元弘年間,当荘日向方は最後の執権赤橋守時の所領であり,その滅亡後,足利尊氏領となっていることがわかる(比志島文書/神奈川県史資料編古代中世3上)ところで,建武元年7月3日の島津荘日向方南郷乱妨狼藉人等交名は,鎌倉幕府滅亡後,北条高時一族遠江掃部助三郎方に与同した領主を書きあげたものだが,その中には救仁弁済使・南郷弁済使・三俣(院)先公文・串良弁済使らが見え,鎌倉期の北条氏支配の間に,弁済使・公文という島津荘日向方の荘官層が北条氏方に組織され,南郷がその拠点となっていたことを示している(諏訪文書/日向古文書集成・旧記雑録前1)南北朝期における島津荘の一円荘域では,島津荘日向方南郷の門貫・末貞名を門貫氏から獲得した長谷場氏に対し,康永4年3月16日一乗院留守所下文によれば,当荘領家一乗院留守所は,門貫氏から長谷場氏への土地の移動を認め,春日大宮司への供米の沙汰を長谷場氏と契約している(長谷場文書/南北朝遺2103・旧記雑録前1)島津荘留守所は奈良にあり,在地では長谷場氏からの年貢上納に依存する形であり,その後,在地領主層の勢力拡大のなかで,領家興福寺一乗院の支配力は減退していったまた,日向方北郷では,文和2年2月,一色範氏が島津氏久に北郷の地頭職を宛行い,以後の島津氏の日向への進出の橋頭堡的位置を占めるようになる(島津家文書/大日古・日向古文書集成・旧記雑録前1)北郷は,その後,氏久の伯父北郷資忠の所領となり,守護島津氏の認証下に,庶家北郷氏の在地支配が推し進められていった南北朝期~室町期,島津荘がどれだけ実態的に機能していたかは不明であるが,室町期以降も「島津御庄日向方」「日向国於島津荘」「島津庄日向方」「島津御庄薩摩方」「島津庄大隅方」などと広域地名として見える(旧記雑録)荘域は現在の宮崎県南部から鹿児島県に及んでいる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7460258 |