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萱島荘(中世)


平安末期~戦国期に見える荘園名板東郡のうち柏島荘とも書く康治3年正月24日の法印某下文案(葛原文書/平遺2524)に「下 萱島庄 可早以宗政為西庄下司職事」とあるのが初見で,当荘が東西2荘に分かれており,西荘下司職に宗政が補任されたことがわかる保元3年12月3日の官宣旨(石清水文書/平遺2959)によれば,石清水八幡宮寺領の1つとして「阿波国 萱島庄」が見えており,当荘などに対する石清水八幡宮寺および極楽寺領の荘園の領家・預所・下司・公文等の掠領を停止するよう命じている下って鎌倉期の正治2年正月日の藤原為教譲状(隅田家文書/鎌遺1106)によれば,為教は先祖相伝の職である「萱嶋御庄下司并惣公文職」を藤原能村に譲与しており,当荘内に武松・枝恒などの名があったことが知られるそして同年2月11日の石清水八幡宮寺政所下文(同前/鎌遺1107)によって藤原能村は「西庄下司職」に補任され,同年2月日の萱島荘預所下文(葛原家文書/鎌遺1113)でこれが遵行されており,相伝の職が前記の西荘下司職であったことがわかるまた同年2月11日の石清水八幡宮寺公文所下文(隅田家文書/鎌遺1108)によれば「女房熊野詣雑事」のうち白米については「萱島西庄下司能村」の進止であった下って建仁元年4月10日の預所下文案(紀伊続風土記葛原文書/鎌遺1193)によれば,「萱島御庄吉成・北島住人等」に対して,藤原能村を「西庄下□(司カ)職」に加えて「□□(吉成カ)・北島両郷」の下司職にも補任する旨を伝えているなお,正応2年7月15日の石清水八幡宮堂達法師定文によれば,翌正応3年7月15日の菩薩戒会頭の乞戒宝樹預の1人として「萱島庄北島名主次郎」の名が見える(榊葉集/続群2上)下って寛喜3年4月22日の石清水八幡宮寺供米支配状(榊葉集/続群2上・鎌遺4130)によれば,当荘は政所の沙汰として正月7日に,「四石九斗五升,庄斗定,一斗ハ御供米一斗八升八合延也」の供米を納めることになっていたこの供米は元来所司役としてあてられていたものが,この時から石清水八幡宮領に割り当てられたものという「宮寺縁事抄」には「萱島庄,別当幸清〈寛喜三年四月廿三日,始宛此庄〉」と見える(石清水文書/大日古4-5)鎌倉中期と推定される聖舜法師の注進した宝前以下御供米勤仕荘々注文および宝前以下供米一月所入分注文によれば,当荘は9月に14石4斗の供米を納めることになっていた(榊葉集/続群2上)また南北朝期頃のものと推定される石清水八幡宮末社記によれば,愛染明王堂(号平等王院)の料所5か所の1つとして「阿波国萱島庄」が記されている(続群2上)応永18年5月12日の石清水八幡宮宝前以下諸堂塔勤行并供料注文によれば,当荘を含む5か所の荘園から供料として480貫文を納めていた(石清水八幡宮文書/信濃史料7)正安3年2月4日の後宇多上皇院宣案(石清水八幡宮縁事鈔/徴古雑抄4)によれば「阿波国萱島庄」など4か荘を高坊造営料として社務に付されている南北朝期の文和元年12月22日の足利義詮下文案(安宅文書/徴古雑抄2)で,安宅王杉丸は勲功の賞として「阿波国萱島地頭職〈一宮六郎次郎成光跡〉」を宛行われ,翌日管領の施行状が阿波守護細川頼之に下されている(同前)一宮成光は,南朝方の一宮城主小笠原氏の一族で,観応3年5月20日の飯尾吉連代光吉心蔵軍忠状(飯尾文書/徴古雑抄2)に見える「□□郎二郎」と同一人物と推定され,観応2年正月4日に拠点の寺山を追われている(県史2)前記の足利義詮袖判下文から鎌倉期の当荘の地頭を一宮氏とすることはできないが,その可能性も考えられる安宅氏は,観応元年6月3日の足利義詮御判御教書(安宅文書/徴古雑抄2)により,淡路国沿島の海賊退治を命じられ,以来北朝方として活動していたが,王杉丸の父頼藤が正平14年頃南朝方に属すと(同前),当荘は細川氏の支配下におかれたと考えられる応安元年6月24日の了清聖通連署譲状(石清水文書/大日古4-1)では「はうりやうあハのくにかやしまのしやうの事,こんとあんとの地にて候へとも」とあり,石清水八幡宮の坊領として安堵されているしかし,永和3年9月6日の管領細川頼之奉書(細川家文書中世編)では細川頼有に対し,萱島荘院主職の押領を停止するようにとの命令を施行しているこの院主職は,応永7年8月24日の細川義之宛の管領畠山基国施行状(細川文書/大日料7-4)に見える細川頼長の所領「別宮島院主職」にあたり,同年3月23日に足利義満から安堵されていた別宮島は現在の徳島市川内町上別宮・下別宮付近にあたり,ここに石清水八幡宮の別宮があり,院主職はこの別宮を司る役職名であったと考えられる別宮島は吉野川の河口にあり,細川氏はここを重要な港として支配していたのであるなお応永年間に書写された若王子(現香川県白鳥町)所蔵の大般若経の奥書に「阿州葛島庄浜法談所覚舜,十九才」「阿州板東郡萱島庄吉成⊏⊐勢舜,三十六才」などと見える(郷土白鳥35)下って永享6年7月20日の足利義教御教書(菊大路家文書/大日古4-6)では「山城国狭古林・阿波国萱島庄」が石清水八幡宮領として善法寺宋清の領掌が認められ,同年9月2日の細川持久施行状(同前)が下されたまた長禄3年11月10日には「阿波国萱島庄」を善法寺阿子々丸代に沙汰付けする旨の細川勝元施行状(同前)も下されているが,守護による押領が続いており,延徳2年閏8月11日の室町幕府奉行衆下知状(同前)によれば,「石清水八幡宮領阿波国萱島庄事,為厳重神領之処,守護押領之条,数度雖被仰之,依兎角難渋」とあり,当荘の替地として摂津国賀島荘が石清水八幡宮に付されているなお明応6年11月3日の足利義澄御教書(同前)によれば,摂津国賀島荘が替地として付されたのは長享元年であったというしかし延徳3年8月日の善法寺雑掌申状写(同前)によれば,賀島荘はその後細川彦九郎(義春)に返付されてしまったため,石清水八幡宮の雑掌は従来からの社領である当荘と,当知行を認めた賀島荘を両方とも石清水八幡宮領として安堵するよう訴えているそして前記の明応6年の足利義澄御教書では,賀島荘を石清水八幡宮領として認めているしかし永正3年4月17日の室町幕府奉行衆下知状(同前)によれば,当荘の替地として与えられた賀島荘は,三好之長の下知と称する天竺越後守被官人泥堂彦左衛門尉によって押領されてしまった当荘は結局細川氏に押領されたまま,石清水八幡宮には返付されなかったのである当荘名の終見は,永正9年8月16日の室町幕府奉行衆下知状案(同前)である現在徳島市応神町吉成にある別宮八幡社は,社伝によると,万寿2年別宮浦(現在の徳島市川内町)に石清水八幡宮の別宮として創建されたものとして伝え(板野郡誌),おそらく当荘の立荘の時に勧請されたものと考えられる(県史2)荘域は,当荘内の地名として吉成郷・北島郷・別宮島などが見え,現在板野郡北島町鯛浜の小字に「かや」が残ること,また別宮八幡宮の氏子範囲が古くは現在の徳島市の旧応神村域・川内町,北島町高房なども含んでいたこと(板野郡誌)などから,現在の徳島市の旧応神村域・川内町,板野郡北島町にかけての地域と推定される(県史2)

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KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7617771