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水戸黄門(徳川光圀)の驚くべき実像


水戸黄門(徳川光圀)の驚くべき実像

◎美男子だった水戸黄門

 徳川御三家といって、真っ先に思い出す人物は、水戸家の水戸黄門(徳川光圀[みつくに])だろう。

 彼には、天下の副将軍にして弱者の味方という、「水戸黄門漫遊記」やテレビドラマの印象が定着している。だが、その実像は、一般的なイメージとはまるで違う。

「御色[おいろ]白く、御背[おせい]高く、…(中略)…御鼻筋とおりて高く、…(中略)…若き御時[おんとき]は世上にて美男の聞こえあり」(『桃源遺事』)

 右は光圀の容姿である。実は美男子だったのだ。しかも史実の光圀は、隅田川の船遊びと歌舞伎を好み、たびたび色里にも出入りし、このうえなく酒を愛したと伝えられる。二日酔いで苦しんだり、泥酔して客の帰るのを知らなかったりと、度を過ごす深酒もあったようだ。

 また、「巴[ともえ]」という贔屓[ひいき]の女性が吉原にいたことも判明している。事実、飲み友達の鍋島元武[なべしまもとたけ](肥前小城藩主)にあて、「お前の女が寂しがってるぜ。早く吉原に顔を出してやれ」とちゃかした光圀の書簡も残っている。

 なんとも人間らしいではないか。人徳者としての黄門様より、本物の光圀のほうにいっそうの親近感を覚える。

◎家臣に黒人がいた!?

 光圀はまた、外国の文物に大変興味を示した。阿蘭陀茄子[おらんだなす](トマト)やジャガタラ蜜柑[みかん]といった果樹を海外から取り寄せて農民に栽培させたり、家臣の筑間玄述を長崎に派遣してオランダ医学を習得させたりした。さらには、中国の知識人を領内に招いたり、朝鮮使節と親しく交流した。おもしろいのは、どこから連れてきたのか、黒人を家臣に取り立てたことである。この家系は、なんと幕末まで水戸家に仕えたのだった。1688年には、アイヌ人との交易に成功、熊やラッコ、トドといった毛皮を輸入している。このように、光圀の眼は、いつも世界に開かれていた。

 1690年、光圀は養子の綱條[つなえだ]に家督を譲って隠居する。その理由がふるっている。持病の痔が悪化し、下血がひどくなったので殿中で粗相[そそう]してはこまると引退したのだ。

 ここまで聞けば、読者の水戸黄門のイメージは完全に崩れ去ったと思うのだが…。




日本実業出版社
「早わかり日本史」
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