早わかり世界史 第5章 二つの世界大戦で没落する 13.第一次世界大戦とヨーロッパ 352 インドの独立を助けた「塩の行進」 ◎スルタン・カリフ制から大統領制へ 第一次世界大戦は、実は、オスマン帝国(トルコ)の分割をめぐる戦争でもあった。 オスマン帝国は敗戦により解体され、フランスがシリアを、イギリスがイラク、パレスチナを国連の委任統治領というかたちで実質的に植民地として支配した(エジプトは大戦中にイギリスの事実上の植民地とされた)。 小アジアがなんとかトルコ領として残されたが、第2の港スミルナがギリシアに割譲され、関税自主権が制限され、治外法権を認めさせられて、トルコは「半植民地」に没落した。そうした状況下で、トルコ民族運動の指導者となったケマル・パシャは、侵入してきたギリシア軍を撃退し、スルタンを追放してトルコ共和国を樹立した。ケマルは自ら大統領になり、カリフ制を廃止して政教を分離し、西欧をモデルとする国家建設をおし進めた。 その結果、イスラム世界は結束の中心の「カリフ」を失うことになり、ヨーロッパ文明の影響が飛躍的に強まった。ケマルは、民法の制定、一夫多妻制の廃止、婦人のベールやトルコ帽の禁止、アルファベットの採用などにより伝統的習慣もどんどん改めていった。◎インドの非暴力による反英運動 イギリスは、第一次世界大戦中にインドに対し、戦後に自治権を認めることを約束して戦争への協力を求めた。しかし、戦後は約束を反故にし、ローラット法(緊急刑事特別法)を制定して、令状なしで逮捕・投獄する強い権限を総督に与え、民族運動を弾圧しようとした。 それに対して、南アフリカで移住インド人に対する差別を撤廃させて名声を得ていた弁護士、ガンディーが民族運動を指導することになる。彼は、ヒンドゥ教の思想にもとづく「非暴力・不服従」の抵抗運動を展開し、イギリスの統治に大きな打撃を与えた。しかし、運動が高まり、武力闘争が頻発すると、精神的な勝利を求めるガンディーは運動の中止を指示した。◎塩23グラムが再び盛り上げた運動 だが、1929年に開催されたラホール大会で「プールナ・スワラジ」(完全独立)の方針と赤・青・白の国旗が定められると、ガンディーは翌年、イギリスの製塩禁止法に反対し、「塩の行進」という大衆運動により新たな民族運動の波を引き起こした。 60歳を超えたガンディーは、弟子を率いて29日かかって170あまりの村々を通り、熱狂する民衆に迎えられながら約320キロ離れた海岸にまで歩き、イギリスが禁止していた塩23グラムをつくった。このできの悪い一握りの塩から、インドの独立につながる第二次抵抗運動が始まったのである。 日本実業出版社「早わかり世界史」JLogosID : 8539811