100辞書・辞典一括検索

JLogos

21

福岡村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。二戸郡のうち。盛岡藩領。享保20年から福岡通に属す。南部信直・利直の城下町として五日町・九日町が形成され,宿駅を中心として整備がなされ,文化も寺社を中心として発展した。慶長4年利直が盛岡城に移った後は,利直長子の経直が城代となって当地方の行政および治安にあたった。経直は慶長18年16歳の若年で逝去し,その後,寛永19年に福岡城は廃城となった。村高は,「正保郷村帳」415石余(田139石余・畑275石余),「貞享高辻帳」519石余,「邦内郷村志」「天保郷帳」ともに919石余,「安政高辻帳」737石余,「旧高旧領」928石余。なお,「仮名付帳」には当村の枝村として村松村が見える。「邦内郷村志」では,家数566,馬640。「本枝村付並位付」によれば,位付は上の下,家数535,集落別内訳は五日町66・九日町143・本村179・村松56・穴牛13・鍵取14・門沢8・桐ケ久保3・尻子内17・沼6・船田1・繋2・蝦夷森1・月ノ木平2・鷹場2・大萩野7・夏間木6・作ケ久保8・上野1。天保3年の「福岡通御代官所御郡分書上帳」によると,村高929石余のうち蔵入高480石余,給人23名,寺社領は5石余(法明院・稲荷神社)となっている。福岡通代官所は,九日町に元和6年設置,初代代官は盛岡の御給人石井新助・金田一刑部左衛門の勤番制によっていた。藩の役人として街道奉行と植付漆奉行が併置され,植付漆奉行は生漆の生産,漆木の植付割当等の指導に従事したといわれる。その人数は各役職あわせて士族81名・役医6名となっている。伝馬所は九日町に1か所,五日町に1か所あった。浄土宗光明山善導寺・曹洞宗高沢山竜岩寺・糠部三十三観音第28番札所岩谷観音などが九日町にあり,浄土宗得生山安養寺は五日町にある。五日町の呑香稲荷社は社領3石の鎮守である。同社は盛岡藩の北の守りとして藩政上重要な神社であり,藩主重信が貞享3年奉行栃内与五郎左衛門に命じて社殿を再建させている。以後盛岡藩が修復などにあたってきた。また,同社の祭礼はこの地方最大の年中行事であり,文化14年「福岡御役屋年中行事書上帳」に祭礼は7月7日・8日の両日で,近郷近在の老若男女が参加して行われたとある。文化12年下斗米秀之進(相馬大作)が江戸の軍学者平山行蔵の教えをくむ実用流道場兵聖閣を開いて,地元の子弟数十名の教育にあたった。武術をはじめ兵書・経書を講じ,和漢の軍談を語り,厳格で質実剛健を重んじ,短衣弊袴,厳寒でも羽織・足袋を用いず,25日昼夜兼行の武術修練などを行ったり,3昼夜絶食の剣槍の修練を試みるなど専ら心身の鍛練に努めた。藩主も兵聖閣を黙認し,陰から援助していたといわれる。なお,彼は文政4年に弘前藩主を襲撃しようとした相馬大作事件によっても有名である。安政5年7月尊王の志士萩藩士小倉謙作が当地に入り,呑香稲荷社神官小保内孫陸などと会輔社を開校し,地域の子弟に経書を講じ,歴史を説いた。小倉氏は滞在1年吉田松陰の死を聞いて去ったが,次いで常陸の吉田房五郎が万延元年~文久2年3月まで経書を講じ,兵法を説いた。吉田氏は福岡を去るにあたり,会輔社規をつくり,役員を指名し,その後小保内定身・田中館礼之助らを主として会輔社の経営に当たらせた。文久2年呑香稲荷神社の境内に稲荷文庫を開設し,江戸より2,000冊の蔵書を購入し,会輔社員および一般村民が利用し,遠くは野辺地(現青森県),南は日詰,西は花輪(現秋田県)あたりまで貸出利用された(二戸郡誌)。明治元年弘前藩取締,以後黒羽藩取締,九戸県,八戸県,三戸県,江刺県,青森県を経て,同9年岩手県に所属。明治6年竜岩寺に福岡小学校が開校され,会輔社も同11年会輔社私学校となり,同15年まで続いた。明治12年二戸郡病院が開設され,また木造岩谷橋が架橋されて五日町と九日町がつながった。水漆・生蝋・晒蝋・麻太布等は代表的産物である。明治14年の人口1,598。同18年の村の幅員は東西約1里15町・南北約1里7町,税地は田44町余・畑491町余など計584町余,戸数669・人口3,396(男1,791・女1,605),牛4,馬427,福岡学校の生徒数168(男140・女28),職業別戸数は農業329・工業50・商業180・雑業100,物産は米・雑穀のほか漆・生蝋・生糸・縮緬・紬・真綿など,当地の警察署は一戸村・浄法寺村・田山村の3分署を管理し,4等郵便局が設置されていた(管轄地誌)。同22年市制町村制施行により,一部が爾薩体【にさつたい】村・石切所村の各大字となり,残部は単独で自治体を形成。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7254766