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余目領(近世)


江戸期の所領名田川郡のうち領名は古代からの余戸郷にちなむ元和8年庄内藩領,天和2年旗本知行地,元禄9年幕府領,天明4年松山藩領,天明8年幕府領,元治元年からは再び庄内藩領石高・村数は,天和2年5,005石余・15か村(雞肋編/県史5・6),明和3年5,095石余・15か村(毛附割合高帳/鶴岡市資料館所蔵文書)幕末期の石高4,952石余,村数14か村,人数3,573(荘内要覧)天和2年,庄内藩主酒井忠真が新田5,000石を酒井忠高に分知し旗本知行地となる忠高は寄合に列し,貞享2年8月~同3年9月駿府加番となる江戸浅草向柳原に居住し,忠高ののち,忠雄・忠盈と続いたが,忠盈が13歳で没し,嗣子がなく収公された幕府領のときは,寒河江・漆山・長瀞・尾花沢代官所の支配となり,陣屋は寛延3年大山村に置かれた寛延2~3年は酒井忠寄預り,明和6年~天明4年と天明8年~天保12年は酒井忠徳・同忠器預り,弘化元年~元治元年は酒井忠発預りとなったはじめ領内は,町村・南口村・興屋村・朝丸村・常万村の余目組5か村と茗荷瀬村・払田村・西小野方村・大野村・境興屋村・中野村・南興屋村・南野新田村・南野村の余目組9か村の行政区からなる元治元年庄内藩領となり,狩川通余目組となったなお,大野村は松山藩と相給,田谷村ははじめ当領のうちであったが,天明元年から松山藩領となった宝永7年,惣百姓らが相談の上,巡見使通行に際して当領を代官領とするように訴えて取り上げられ,それより正徳3年8月,代官領とされた(工藤氏記録)明和元年,西小野方村の上林職応によって「余目御領根元記」が編まれた弘化元年,代官支配から庄内藩預りとなることへの反発から大山騒動が起こったが,町村名主清助らは当初より消極的で,のちには庄内藩に内通し騒動から離脱の方向をとっていった嘉永~安政年間に心学が伝えられ,江戸の中村徳水,鶴岡の荒井和水らが来講し,安政2年には町村に余目社が成立した明治5年酒田県(第2次)第6大区小17区となる(余目町史年表・余目町史資料1)




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7261654