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平安末期〜戦国期に見える荘園名。若狭国遠敷【おにゆう】郡のうち。平安末期〜鎌倉初期には国衙領として太良保と称され,その伝統を受けて国衙や守護は荘園化したのちも太良保と称することが多い。当荘は京都の東寺(教王護国寺)旧蔵の尨大な文書によって内部構造や荘民の動向を詳しく知ることができる著名な荘園である。11世紀末に遠敷郡長田(野木付近か)の地名を名乗る下級貴族平師季は遠敷郡内の東郷と西郷に属する松永保恒枝名内に所領を有しており,この所領は子の隆清,さらに隆清の子の忠政に伝えられ,仁平元年3月に忠政の子丹生若丸(雲厳)に与えられた。この時その所領は「丹生村 太良保内二ケ所」と見え(東寺百合文書ぬ/平遺2725),これ以前に忠政の通称丹生太郎に基づいて「太良保」が成立していたことがわかる。雲厳は治承2年2月23日に太良保の保司から公文職に任じられ(同前は/同前4021),源平争乱の時は源氏に味方して鎌倉御家人となっている(同前ホ/鎌遺854)。この時公文雲厳は西郷郷司であり,若狭国の最有力在庁官人で御家人でもあった稲庭時定に服していたが,建久7年時定はその所領のほとんどを幕府によって没収され,代わって若狭国守護,遠敷・三方両郡惣地頭の若狭忠季が太良保地頭となった。忠季の圧迫を受けた雲厳は,承元2年11月所職を稲庭時定の子の時国に譲与せざるを得なかった(同前ぬ/同前1765)。比企能員の縁者であった忠季は比企能員の乱によって所領・所職を没収され,代わって同保は中条家長の所領の1つになった。他方で建保4年に若狭の知行国主源兼定は太良保を七条院(高倉院後宮藤原殖子)建立の歓喜寿院に寄進しここに太良荘が成立し(同前は/同前2213),翌5年には田地目録も作られ,12の名の体制も整えられたとみられる(同前エ/同前6893)。しかし,承久の乱後,還補された地頭若狭氏の支配は横暴を極め,公文職を奪い,荘民に種々の言いがかりをつけて罰金を責め取った(同前ほ/同前6254)。また,承久の乱後は当荘は国衙領とされて太良保となっていたので,のちに東寺長者となる仁和寺菩提院行遍は東寺の常住供僧料獲得のために活動し,延応元年2〜11月に当荘は本家歓喜寿院,領家行遍として回復され,預所には東寺僧聖宴が任じられた(東寺文書射/同前5381,東寺百合文書エ/同前5501)。この年に預所の代官である定宴が下向してくると,地頭の横暴に耐えていた勧心・真利・時沢の3人の百姓をはじめとする農民たちは定宴と結んで地頭の非法を訴え,ついに寛元元年11月地頭代定西の罷免などをめぐる六波羅探題での裁判に勝訴した(同前ほ/同前6254)。さらに,宝治元年10月の関東下知状によって勧農は預所の沙汰とすることが定められ(同前エ/同前6893),これを受けて定宴は建長6年11月検注を行い(同前は/同前7826),同8年2月に勧農帳を作成した(同前/同前7966)。その結果,当荘の総田数は28町8反余で,神田や給田を除いた21町6反余が定田とされ,定田は2町台の均等な5つの名を中心に編成されている。これに基づいて年貢186石余と糸・絹綿などの公事が徴収され,このうち10石が本家の歓喜寿院に送られた。また,地頭は3町の地頭給と久珍名・三郎丸名など4町5反余を支配し,この部分は地頭方と称された。なお,文永2年11月の若狭国惣田数帳案では太良保は25町8反40歩とされ,地頭給などを除いた定田は17町2反190歩として登録されているが(京府東寺百合文書ユ),この25町8反余は当荘の公田数として室町期にも国衙の段銭などの賦課基準とされている。鎌倉後期になると種々の名主職相論が起きる。その代表的なものが御家人雲厳の所領であった末武名をめぐる争いであり,建長5年に雲厳の養子と称する宮河乗蓮,その娘藤原氏女が現れ(東寺百合文書ア/鎌遺7518),これに対抗する稲庭(中原)時国の孫娘中原氏女,その夫脇袋範継との間で弘長〜文永年間を中心に繰り返し争われた。他方で文永8年には勧心名について,他所に逃げていた西念と勧心の所従で勧心より名を譲与されていた重真らの間でも争いが生じた。預所聖宴は西念に名主職を与えたが,これに対して荘民たちは弘安元年5月に,相伝の名田をさしたる罪科もないのに他人に与えられることは今日は人の身たるといえども明日はまた身の上たるものかと中世荘民の連帯感を表明して,聖宴の処置に反対した(同前イ/同前13063)。その他にもさまざまな争いがあったが,正安4年9月地頭若狭氏は所領を没収され,太良荘地頭職は北条氏得宗の支配するところとなった。このときの得宗代官による検注は,畠を把握したほか,惣田数帳案の定田17町2反190歩以外の地は新田として地頭が支配することを定め,また隣接する恒枝保の一部の耕地を取り込んだため,南北朝期の紛争の種を残した(東寺文書百合外/同前21273)。この得宗地頭支配下で代官(給主代)として近隣の体興寺の住人願成や小浜の高利貸(借上)と思われ,熊野三山僧ともいわれる石見房覚秀が支配を行った。この得宗圧政のもとで所職を奪われていた近隣武士や荘民の怒りが建武新政府下で爆発する。元弘3年9月に地頭職は後醍醐天皇によって東寺に寄進された(東寺百合文書ヒ)。当荘はここに東寺の一円所領となったが,かつて地頭であった若狭直阿は実力で支配を回復すべく荘内に乱入した(同前ヱ)。また,乱妨を取締るべき国衙の在庁官人や守護代も元弘3年11月に荘に乱入し,遠敷市に出かけた荘民の資財物を奪っている(同前は)。この時末武名の由緒を主張する脇袋彦太郎国広は名主職を回復するとともに,「庄家警固」のために地頭代に任じられた(同前リ)。しかし,脇袋は末武名の公事を負担せず,農民を使役し在家を壊して城郭を作るなどしたため,59名の荘民たちは一味神水して起請文に連署し,脇袋の改易を東寺に求めている(同前は)。さらに,助国名・時沢名をめぐる荘民間の対立もあり,建武年間は「明王聖主の御代」(同前ヱ)といわれながら当荘は大混乱の時期であった。暦応2年2月にはようやく動乱が一段落し,領家方163石余・地頭方120石余の年貢が定められ(教王護国寺文書),以後毎年算用状が作成されるようになる(東寺百合文書ハ)。観応の擾乱の影響を受けて,観応2年10月に遠敷郡の武士を中心とする国人一揆が形成され,守護大高重成の代官大崎八郎左衛門入道を追い出すとともに太良荘にも乱入した(同前ハ)。そこで荘民は脇袋国治を代官とすることを要求し,国治が請負代官となった(同前フ)。他方で文和3年に守護細川清氏による半済が行われた(同前ハ)。脇袋国治のあと河崎信成や宮川弾正忠という若狭国人が代官となる時期が続いたが,延文4年にはそうした国人の代官請負制が止んだので,東寺は預所や地頭代官の権限や得分を制限することによって荘の再編成をはかった。しかし,これが原因となってか康安元年8〜9月に定宴子孫の賀茂阿賀丸が公文の禅勝を殺害し(同前ツ),阿賀丸もまた禅勝の子によって殺されるという事件が起きている(同前し)。同年末に康安の政変で没落した細川清氏に代わって守護となった石橋和義の家臣とみられる「ヘカサキ」重雄は,貞治元年に半済を強行し(同前ツ),領家方・地頭方の年貢のうち半分の141石余が半済給人の得分となり,のち応安元年には名ごとに下地も等分されて半済方が成立する(同前オ)。半済方に対して東寺の支配する部分を本所方という。室町期にはたび重なる東寺の要求にもかかわらず半済は停止されず,また守護の課す臨時課役も多かった。正長元年の土一揆の余波が当荘にも及んだが,翌2年には本所方に最後の検注が行われた(同前は)。この検注の内容は以前のありかたを変えるものではなかったが,農民の肩書に太郎・ナルタキ(鳴滝)・谷・西丸田・尻高・西山などの在所名が記されこのうち鳴滝,谷は応永年間にすでに村名で呼ばれた。なお,尻高は地頭方に属す田地を持たない地で,尻高名ともなっているが,守護方の陣夫などを勤めなかったため,康正元年には荘民の要求によって名主職が没収されたこともあった(同前し・タ)。永享12年には守護が一色氏から武田氏に代わり,半済方は武田氏家臣山県氏が支配することとなり,その支配は戦国末期まで続いた。嘉吉2年には当荘の住人大工小南六郎権守行信が東寺御影堂の鐘を鋳て進上しようと申し出て(同前ヌ),翌3年鐘は東寺に送られたが,この年の後半には若狭にも徳政一揆が起こり,荘民たちは神物仏物にも「田舎の大法」は適用されるのだとして年貢から借りた鐘の運送費の返却を拒んでいる(同前ヌ・ツ)。文安年間の地震によって用水排水ができなくなったので,太良荘半済給人などは荘の南を流れ,今富名の大井の下を潜る埋樋を設置していたが,今富名側がこの埋樋の口を塞いだため寛正元年より相論が起こり(同前ハ),これに関する絵図も作られている(同前と)。応仁の乱直前の文正元年9月には半済方が本所方を支配するようになったと報告され(同前ハ・ナ),応仁の乱とともに東寺の支配権は失われた。戦国期には本所方の代官として桑原氏が知られる(高鳥甚兵衛文書/小浜市史諸家文書編)。天文20年9月14日の本所方指出によれば,本所方定納分は米74石余,地子銭・段銭の計が48貫余とされている(同前)。この指出の除分のうちに有力農民8人に公事給24石が与えられているのが注目され,また荘内の若宮・一宮・山王社(日枝神社)の神事料も記されている。天正16年7月12日の浅野長吉(長政)の検地では田方57町9反余(849石余)・畠方11町4反余(85石余)・居屋敷1町6反余(16石余),合計分米951石余が定められている(同前)。この時の名請人数は123人で,100石以上を有するのは高鳥甚大夫ただ1人であった。
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