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(近世〜近代)江戸期〜昭和41年の町名。江戸期は前橋城下町人町の1町で,明治22年前橋町,同25年からは前橋市の町名となる。貞享元年の「前橋風土記」による城下19町のうちに町名が見える。古利根川が形成した広瀬川底地帯上に立地し,右岸の前橋台地崖に面している。町名の由来は不明であるが,町を横断する江戸道の中央に水路があったためかと思われる。当町の肩書に天川村のうちと付けられる場合があり,それは城下町形成時に中川町が天川村内に町割りされたことを示していると思われる。文政4年の前橋総町絵図(勝山氏蔵文書)による町の規模は,面積3町5反余,家数44。以前では,寛政2年の家数人別書上帳(前橋市立図書館蔵文書)で組数4,家数37,人数は男83・女57,寺社1,持馬4。寛政元年頃には名主1・組頭4が置かれていた(寛政元年惣町寺社人別帳)。寛政元年の酒井雅楽頭御家中分限帳によると,当町には御医師7人扶持高橋養金・御歩行組16俵2人扶持有坂小左衛門・御奉行支配50石利根川茂太夫・御土蔵番15両2人扶持五十嵐儀兵衛ほか2名・御料理人格5両2分2人扶持持文六ほか1名が居住していた。なお文政12年の諸職人元帳には畳刺3・鍛冶2・屋根葺1・大工1・板割1が見える(勢多郡誌)。また慶応4年〜明治元年頃には米穀商5もいた(松井家文書)。町年寄御用日記(同前)によれば,文久4年中川町小兵衛の湯屋仲間渡世願いが出されている。これによると,竪6尺5寸横4尺の洗湯箱風呂で,明け六ツから夜四ツまで営業し,湯銭は1人12文,子供は1人10文であった。「三川家文書」によると,当町には農業を主とする者もかなりいたようである。天保4年の火事で12軒焼失し,そのうち6軒が焼家難渋人として金3両の拝借金を中請したが,いずれも3反余〜2町5反余の田畑持ちであった。幕末の前橋城再築時には,文久3年幕府の再築許可前に町全体で75両の資金を據出し,また同資金として元治元年にも蚕積金21両余を上納した(松井家文書)。なお文久4年町在惣代小林宇平治は土居・堀大世話方に任命され,築城に必要な人足の差配を行った(御築城別記録)。江戸末期の俳人として,文化13年に没した青木竜鳥がいる。明和7年板屋町から出火した大火で町全焼(57戸),明治20年小柳町から出火したいわゆる蒟蒻屋火事では17戸が焼失した(群馬日報)。なお「鈴木愛三回顧談」では町全焼とある。また天明3年の浅間山噴火に伴う社会不安から百姓騒動が起き,当町では大津屋源六という酒屋が襲われた。明治期に入ると9〜14釜程度の小規模な製糸工場が創業を始めた。明治年間を通じて6工場あった。大正10年には生糸工場1・玉糸工場8(大正10年工場台帳),昭和8年は生糸工場1・玉糸工場6・撚糸工場1があった(工場調査表)。戦後も長谷川製糸・山本製糸・中島副蚕糸などがあったが,町は住宅地が増え商工業の大きな発展はなかった。なお,大正13年に都市化に対応して前橋南部耕地整理組合が発足すると,町の南半分がその対象となった。教育については,前橋藩士渡辺綱太郎が慶応元年〜明治4年まで町の寺子屋の師匠を務めた。筆子は男27・女3で,寺入り7歳の6か年通年教授。月謝はとらず,束修は寺入りの時10銭程度と菓子を持参。教科目は読み・書き・そろばんで,「実語教」「庭訓往来」などを使用した。明治7年民家を使用して中川学校が開校,開校時の生徒数74・教員3。同11年片貝町,同31年芳町へ移転した(前橋市教育史)。昭和41年三河町1〜2丁目となる。
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