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那須野ケ原
【なすのがはら】


那須野原・那須野が原とも表記し,那須野ともいう。栃木県北部の広大な扇状地ならびに高原・丘陵をいう。古くは,単に「那須野」と呼ばれていたらしい。那須にある原野,もしくは平坦地ということで名づけられたようである(日本の地名)。地名の初見は鎌倉時代の「吾妻鏡」で,那須野とある。同書に,建久4年この原野において,将軍源頼朝によって巻狩が行われたことが記されている。室町期から江戸期にかけての多くの文献・文書は,那須野もしくは那須野の原(那須野之原)と記したものがほとんどで,一部が那須ノ原・那須野原(読み方は不明)となっている。ただし,「那須野の原」というのは,本来那須野にある原という意味で使い,それが徐々に地域名になったと推察される。明治初年になると,那須野・那須原が圧倒的に多く,一部が那須原野・那須ノ原・那須野の原・那須野原・那須野ケ原などとなっている。今日最も一般的に使われている「那須野ケ原」(那須野が原)が文書に出てくるのは,主に明治10年代以降である。恐らく,明治10年代から行われた大々的な開拓事業の進展に伴って,一般化されたものと思われる。「那須野ケ原」は,江戸期に多く使われた「那須野の原」と同義語であり,これが転訛したものであろう。現在,国土地理院では「那須野原」と表記し,地図には那須野原もしくは那須野原台地と記されている。しかし地元発行のほとんどの文献は,那須野ケ原あるいは那須野が原としている。那須野ケ原の範囲は,時代や文献によって異なり,必ずしも定かでないが,一般には広狭二義に解釈される。広義には,南は箒川,北は福島県境の黒川を境とし,東は八溝山地に区切られ,西は那珂川以北が那須岳の中腹まで,那珂川以南が帝釈山地に区切られた地域を指す(黒磯市誌)。大田原市・黒磯市・那須郡西那須野町・同郡那須町・同郡塩原町・同郡湯津上村・同郡黒羽町の2市4町1村にまたがり,その面積は約7万haに及ぶ。かつてはその大部分が那須郡で,一部(塩原町域)が塩谷郡に属したが,昭和57年に塩原町が那須郡に編入された。ほぼ中央部を那珂川の本流が東南方向に流れ,区域内の河川はすべて那珂川本流かその支流に注ぐ。那珂川以南はほぼ平坦な扇状地で,那珂川以北は那須岳中腹の高原(那須高原)とこれに続く丘陵地。那珂川以北の東西は,どこを境とするかは不明だが,大むね西は標高1,000mの等高線と沢名川を結んだ線,東が国道294号の辺りと推定される。いずれにしても明確な境界はなく,時には那須北地方といった意味でも使われたらしい。江戸期から第2次大戦前の文献・文書の多くは,これを那須野ケ原としている。ただし江戸時代から明治初年の頃まで,地元の住民は余り那須野・那須野の原などとは称さず,部分的な呼称を多く使っていたものと思われる。文化年間の文書(那須町高久・高久家文書)には,那珂川以北の原野を東原,以南の原野を大原というとある。また那珂川と熊川の間の原野の大半は大輪地(おおわじ)原もしくは大輪地野,一部が鍋掛原と呼ばれた。その他中島原・西之原・薄葉原などといった部分的呼称が多くあったようである(黒磯市誌)。狭義には,那珂川以南の扇状地をいい,北部から東部は那珂川,南西から南部は箒川を境とし,西部は帝釈山地に区切られた木の葉形の地域。最長部は約36kmあり,面積は約4万3,600ha(日本地誌5)。那珂川・箒川・蛇尾(さび)川・熊川などがつくった大規模な複合扇状地で,地理学的には那須野・那須野原・那須野原台地・那須扇状地・那須野扇状地・那須野盆地などと呼ばれる。標高は120mから600mにまたがり,所々に帯状を主とした丘陵があるものの,全体的にはかなり平坦な土地である。地理学関係の文献でこの地域を1つのまとまりとして扱うことが多く,主として戦後になって,この地域を那須野ケ原とすることが多くなった。狭義の那須野ケ原は,とかく水利の乏しさが強調されるが,扇端部はかなり水の豊富な所である。扇端部には約600か所の湧水地(湧泉)があり,そこから多くの小川が流れる。その湧水地の上限を結んだ線は,ほぼ鍋掛(黒磯市)・練貫(大田原市)・沼野田和(黒磯市)・井口(西那須野町)・実取(大田原市)・平沢(同)を結んだ線である。この線と那珂川・箒川に囲まれた地域は,古くから多くの村が開かれた。特に那珂川沿岸の湯津上地区は,古代那須国および那須郡の中心地として栄え,日本三古碑の1つである那須国造碑や,著名な古墳が残されている。また那珂川や箒川沿岸の扇側部や,沢水の流れる扇頂部にも数百年以前に村が開かれた。さらに扇央部を流れる蛇尾川・熊川沿岸は,水利が極めて乏しいにもかかわらず,数百年以前に多くの村が開かれた。これは土地が肥沃だったためらしく,飲用水は15~25m前後の深い井戸を共同で掘って得た。江戸初期にいくつかの新田村が開かれたが,旧村落の骨格は室町時代末期には成立していた(黒磯市誌)。中世には幾多の豪族が居館を構え,大田原には近世大名大田原氏の居城も築かれた。慶長年間には五街道の1つである奥州街道が整備され,大田原・鍋掛・越堀・芦野に宿場が設置された(那須郡誌)。江戸末期には狭義の那須野ケ原に約140の村があり,その総石高は約3万7,000石に及んだ(旧高旧領)。しかし,ほぼ旧奥州街道以西で,那珂川と熊川の間,蛇尾川と箒川の間は開発が遅れ,明治初年まで日本有数の広大な原野が横たわっていた。明治になって,前者は那須東原と,後者は那須西原と呼ばれた。この地域こそ,那須野ケ原のイメージに最も合う,広漠たる不毛の原野(原っぱ)であった。その面積は定かでないが,明治初年の官民有区分によって官有地となったものは,那須東原が5,500町歩,那須西原が5,280町歩であった。他に官有原野となったものに湯津上原(418町歩)・糠塚原(104町余)があり,合わせると約1万1,300町歩に及んだ(県治提要)。これらの原野は,江戸期から明治初年にかけて周辺農村の入会秣場として利用された。元来自然の状態で原っぱになる地域ではなかったが,耕作不能地のため秣場とし,年々春先に火入れをし,原野を焼いた。そのため樹木は生長せず,広漠たる原野となっていた。入会については,度々紛争が起きている。那須東原・西原は,表流水がない上に地下水が深く,水利に極めて乏しい地域であった。加えて土地が悪く,人々の開拓の手を絶えず拒んできた(黒磯市誌)。江戸期には,既存の村の飲用水や,その周辺の灌漑用として,蟇沼用水・巻川用水・長島堀・山口堀などの長大な用水路が開削されたが,原野の開拓にまではほとんど及ばなかった。また幕末には,那須西原地区で個人の開拓事業が試みられたが,さほどの成果は収めなかった。明治初年,殖産興業政策が力強く推進された中で,那須野ケ原の原野開拓の気運が高まり,那須東原・西原などの官有原野は,明治13年から20年頃にかけて,開拓を目的とする結社や個人に貸し下げられた。その面積は数百町歩単位で,大農具の使用や移住人の導入により大々的な開拓事業を行った。いわゆる大農場である。主な大農場には,那須開墾社・肇耕社(ちようこうしや)(後の三島農場)・加治屋開墾(後に大山農場・西郷農場に分離)・青木農場・佐野農場・那須東原開墾社(埼玉開墾)・共墾社・毛利農場・品川(傘松)農場・戸田農場・鍋島農場・千本松農場などがある(ほかに那珂川以北に山田農場)。これらの農場主の多くは,維新の元勲や旧大名で,華族農場として知られる。しかし,水がなくて開拓事業が思うように進まず,地元の有志の印南丈作や矢板武などの努力により,明治18年に那須疏水が開削された。国費10万円を要したもので,安積疏水・琵琶湖疏水とならんで日本三大疏水の1つに数えられる。農場の多くは,耕地小作と山林直営の経営方針をとった。移住人は全国から集まったが,特に長野・富山県が多かった(西那須野町史)。こうして昭和20年頃までに,約3,000町歩が田畑となり,約8,000町歩が赤松や雑木の山林に育成された。明治18年,那須開墾社区域が那須野村となり,同22年には西那須野村と名を変えた。また同年,那珂川・蛇尾川間に東那須野村が生まれた。明治17年,新国道(現4号)が開削され,原野を横断した。同19年には,黒磯まで鉄道(現国鉄東北本線)が開通し,同20年には黒磯~白河間も開通した。原野の中にできた那須駅(後の西那須野駅)・黒磯駅・黒田原駅周辺は,新開の町として発展した。第2次大戦後,大農場のほとんどは解体された。そして旧大農場の未墾地や旧軍用地・那須高原などの未開地には,多くの開拓地が生まれた。昭和37年現在,その数は67に及び,入植者は約1,500戸,開墾面積は約3,200町歩であった。特に黒磯市と那須町は多く,県下有数の戦後開拓地となった(のびゆく開拓)。これらの開拓地は大むね高冷地である上に水利に乏しく,酪農に力が入れられ,一大酪農地帯となった。一方,狭義の那須野ケ原の畑作地帯は,戦後地下水揚水による開田が急増し,那須野ケ原は一大米どころとなった。那須高原およびその周辺は,昭和30年代後半から40年代にかけて別荘ブームが起こり,広大な土地が別荘分譲地となり,別荘も多く建てられた。昭和30年代から50年代にかけて黒磯市・大田原市を中心に大工場が進出し,工業生産高が飛躍的に伸びるとともに,黒磯市・西那須野町は人口が急増した。昭和42年からは那須野ケ原の総合開発を進める那須野原開拓建設事業が着手され,那須疏水その他の諸用水は大改修を加えられた。昭和49年には東北自動車道が開通し,西那須野町と那須町にインターチェンジが設けられた。そして同57年には東北新幹線が開通し,東那須野駅は那須塩原駅と名を変えてその停車駅となった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7042985