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香長平野
【かちょうへいや】


県央部の南部に位置する平野。かつての香美・長岡両郡域にまたがるため香長平野と呼称された。また,物部川の古称,鏡川にちなむ鏡野を,香長平野の古称とする説もある。高知平野の東半部を構成し,範域は南国市,香美郡土佐山田町・野市町・香我美町・夜須町・赤岡町・吉川村,高知市の一部にわたる。平野は長岡(山田)台地・野市台地の両洪積台地と物部川・国分川・香宗川が沖積した扇状地性低地や三角州および土佐湾岸の浜堤(砂丘)からなる。平安期においては浦戸湾入を広くみたと考えられる高知平野の西部と異なり,早くから陸化していたため,土佐にあっては政治・経済上に重要な平野であった。長岡台地は物部川右岸,土佐山田町楠目南地区から南西方向へのびる台地。最大幅2km,長さ8.5km。台地北西方は新改川・国分川のつくる低地で限られ,台地南端近くを舟入川が流れる。台地東寄りに土佐山田町の市街地,南端近くに南国市の旧後免町市街地があり,両市街地を結んで国鉄土讃本線・国道195号が走る。野市台地は物部川左岸,聞楽山地前面に広がり,東は山北川・香宗川,南は土佐湾岸に迫る。烏川が南流し,台地中央西寄りに野市町の市街地が帯状に立地。この両台地の間に,土佐山田町神母ノ木(いげのき)付近を扇頂とし,南西方向にほぼ同心円状の等高線を描きながら物部川の形成する物部扇状地性低地が開ける。扇端方向に向かって下田川・秋田川などが流れるほか,小水路も多い。特に物部川右岸部,南国市上咥内から王子にかけてはそれぞれ重なりあう旧河道が多く認められ(土地分類基本調査),物部川の旧流路が現河道より西寄りにも乱流していたことがわかる。この旧流路の西端で扇状地性低地南端付近の南国市田村付近には縄文・弥生時代の遺跡もあり,近年,洪水により埋没した弥生時代の水田遺構も発掘され,注目をひいた。中世,守護代細川氏の居館跡も付近にある。高知空港の北西端にあたり,滑走路はここから南東2,500m余の物部川河口部までのびている。扇状地性低地と前面の土佐湾岸砂丘の間には池沼など後背低湿地が介在。物部川河口部の湿地付近を「土佐日記」の大湊に比定する説もある。低地前面には2列からなる土佐湾岸砂丘があり,砂丘には赤岡町市街地,吉川村中心部,高知市種崎の市街地などがのる。物部川右岸の比江・国分・田村・十市(とおち)からは縄文時代の遺物が発見され,弥生時代の遺跡には高知空港拡張工事に際し発見された先述の田村遺跡をはじめ田村西見当,大篠,竹の後などの諸遺跡があり,平野に点在する孤立丘陵や周辺山麓部は県下一の古墳集中地域でもある。土佐国府は国分川右岸,現在の南国市比江に比定されており,付近には永禄年間に再建された国分寺や比江廃寺塔跡が残る。また,国府跡北方の地は土佐国司紀貫之邸跡とされる。貞観年間には紀夏井が香美郡佐古(現野市町)に流され,父養寺・母代寺を建立したとされ,寺の名は地名として現在に残る。平野では扇状地性低地を中心に条里制遺構が広くみられ,「和名抄」に見える郷のうち,安須(やす)・宗我・深淵・物部・山田・殖田(うえた)・田村・宗部(そがべ)・大曽(おおそね)・片山・篠原・江村・気良(けら)・石村(いわむら)・登利(とかり)など土佐全体の約3分の1にあたる郷が平野内に比定されている。また,土佐国式内社21社のうち,深淵・豊岡上天・小野・朝峯・殖田・石土の各社も平野内に分布する。荘園としては吉原・物部・田村・片山・介良の各荘が知られている。「吾妻鏡」などによると,治承年間には土佐の冠者と呼ばれた源頼朝の弟,希義(まれよし)が介良荘に配流され,頼朝の挙兵に応じたが討たれたとされ,介良には彼の墓と彼を悼んで建立された西養寺跡が残る。康暦年間頃には守護代として細川頼益が田村荘に入り,4代続いたが16世紀に入り衰えた。戦国期には香宗我部・山田・長宗我部氏などの豪族が割拠したが,平野西北部の丘陵,岡豊(おこう)城に拠る長宗我部氏が次第に浦戸湾以東を制し,天正3年には元親が土佐国全土を統一した。同16年元親は,高知平野西部の鏡川三角州上の大高坂山へ居城を移転。これ以降,土佐の政治の中心は香長平野から離れた。長宗我部氏除封後,江戸初期,土佐藩の執政野中兼山は物部川本流に山田堰・上井堰・下井堰を設け,山田堰から上井(うわゆ)・中井(なかゆ)・舟入川の用水路を右岸に引き,左岸には3堰から父養寺井(ぶようじゆ)・野市上井・野市下井の各用水路を開き,長岡・野市両台地の開田化と,低地灌漑路網の充実を図った。舟入川は物部川と浦戸湾を結ぶ運河の機能をも有した。また,長岡・野市両台地新田地帯には山田・後免・野市の各在郷町を開いた。これらの工事による灌漑面積は2,064町歩(県史近世)に及ぶ。農業についてみると,有名な二期作(二番作)の文献上の記載は宝暦11年が初見であるが(宝暦上書),盛んになったのは明治末期,南国市衣笠地区の篤農家による早稲品種の開発以降という。動力脱穀機・籾摺機の導入も相まって,二期作は昭和7年頃に最盛期を迎え,山間部からの牛の賃借,鎌棒・秋仕と称された季節労働者の利用が広範にみられた。しかし,労働力難・二番稲の生産性の問題もあり,昭和30年代に入り作付けが減少。さらに米の生産調整も加わり,現在,二期作は20haほどに大きく減退している。江戸後期,種崎に開始された野菜の早熟栽培は砂丘地で改良が進められ,昭和初期には十市で加温栽培技術の開発をみるなど,湾岸砂丘は促成栽培の先進地である。第2次大戦後にはビニールハウスが導入され,現在も十市周辺は県内屈指の施設園芸の中心地。近年では内陸部にも施設園芸が拡大,生産額では米をはるかに超える。このほか丘陵周辺でのタバコ,野市台地での早掘り甘藷,養鰻などに特色がみられる。工業は,谷口,扇頂部付近の土佐山田町を中心とする天正年間あるいは元禄年間にさかのぼるとされる農林用打刃物業,土佐山田町山田の和傘,南国市久礼田の和紙など伝統産業があったが,和傘・和紙は衰退した。海岸砂丘では古くから商都赤岡で赤岡地縞が織られ,前浜・十市では製塩が行われたが,後者は明治後期に専売法により休止された。平野中央の田村・立田などでは明治末期から小規模ながら農機具生産が行われ,平野の二期作とも関係して現在,近代的農機具企業に発展した。ほかに,江戸期以来の伝統をもつ稲生の石灰業や,かつての捕鯨砲生産から転じた猟銃製作などがある。平野の中心地は南国市後免,土佐山田町山田,野市町野市,赤岡町などがあり,前3者は,野中兼山が開いた江戸期以来の市町,赤岡も中世以来の市町で,いずれも在郷町で街村状の商店街を核として発達している。このうち,物部川上流からの谷口に位置する土佐山田町山田,かつて安芸市方面との私鉄の乗換点であった後免などは交通集落としての性格も強く,高知市への通勤圏内にある結節地として,その市街地は面的拡大が進行している。一方,かつて香美郡役所のあった赤岡町は,その中心地機能が相対的に停滞している。昭和29年,平野南部の物部川河口右岸の現高知空港(南国市)に空路が開設された。その後,空港整備も進み,同58年末からはジェット機発着も実現。同60年現在,大阪・東京・名古屋・福岡・宮崎・鹿児島へ1日35往復の便があり,域外交通の玄関の1つとなっている。このほか,空港付近には国立高知大学農学部・高知工業高専,野市台地の国立青少年センターなどの文教施設の立地もみられ,さらに,近時,スプロール的に住宅地化の進行もみられる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7204899