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石垣原
【いしがきばる】


別府市のほぼ中央部,別府湾の西側に位置する扇状地。鶴見原(つるみばる)ともいう。現在の由布院(ゆふいん)盆地あたりにあったと考えられる旧鶴見層状火山が,爆裂によってその大部分を吹き飛ばされた残片と推定される大平(おおひら)山(792.0m,別称扇山(おうぎやま))の麓に広がり,原形は旧鶴見層状火山の泥流によって形成されたと考えられている。市街地は扇央・扇端部に開けているが,三方を鐘状火山群や溶岩台地に囲まれ,南縁は朝見川断層によって明瞭に区分される。北縁は不明瞭である。北から春木川・境川・朝見川が扇状地面を急流をなして東流し,別府湾に注ぐ。流域延長は7km以下,川幅は35m以下という小規模であり,水量も少ない。豪雨時には,多量の崩土や岩塊を河口まで押し流し,過去にしばしば災害を誘発したため(別府市誌・大分県災害誌資料編),各河川の氾濫を防止するため,砂防施設が築造されている。扇央に島状に浮かぶ実相寺山(170.5m)は鐘状火山である。元禄7年に「町あり。民家百軒ばかり。民家の宅中に温泉十所あり」(豊国紀行)とあり,旅宿18を数えた別府温泉,隣接する浜脇温泉を中心に境川以南であった。国道・国鉄日豊本線・九州横断道路・国際観光港などの交通体系の整備・発達につれて市街地域が境川以北の方向に拡大し,近年における扇央の住宅地化は顕著である。扇状地の周縁部にある別府・浜脇・観海寺・堀田(ほりた)・鉄輪(かんなわ)などは別府八湯と呼ばれる温泉地帯のうちで,断層を通って深部から浅部に流出し,浅部堆積層中に流入して温泉湧出地帯を形成していると考えられている。明治中期までは温泉は自然湧出のみで,自然湧出泉を中心に集落が形成されたが,扇状地南東部の緩傾斜地に位置する別府温泉は,明治22年上総掘による温泉掘削に成功して以来,広範囲に人工掘削が行われるようになり,急速に温泉数を増加させ,泉都として発達していった。しかし近年の開発によって,扇端や朝見川断層に沿っていたものが鶴見山麓までのほぼ扇状地全域にわたって温泉地帯となり,特に北石垣・南石垣においては源泉数の増加が著しい。この傾向は最近10年間に強く,全体の約70%が石垣原扇状地に集中している。これは,九州横断道路の開通(昭和39年)・農地転用・宅地の拡大など,扇状地を生活舞台とする社会的条件の変化に基づいており,石垣原扇状地の地域構造の変化を起こしている。「石垣」の地名は,平安末期~鎌倉期にかけて見られる(弘安図田帳)。「豊国紀行」に,「此処を石垣と称せしは,もとより石多き所なれば,農人畠を作らん為に,石をひろいあつめてつみあげしかば,おのづから石垣となりし故也」とあり,また「鶴見原又石垣原とも云。此原にも,農人はたけを作らんとて,石をおほく所々にあつめ置けり。此原に石垣はなしと云へども,石垣村の西に有,故に石垣原といふ」とあり,速見火山区の火山活動に伴う安山岩質の礫・岩屑が表土近くに堆積し,耕地化に際して石の処理法として垣に用いたと考えられる。さらに「別府」の起源は,荘園「石垣荘」の付属的部分として,平安末期頃「別符」として成立したもので石垣別符と呼ばれた。石垣荘の耕地化に比べて,境川などの氾濫・渇水などで開発が困難なため,耕地化が遅れたと考えられる。慶長5年,大友吉統(よしむね)が黒田孝高と石垣原で合戦を展開して敗北。大友氏が滅亡する歴史的な古戦場でもある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7228669