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菅生原
【すごうばる】


竹田市の西部にある原。直入郡荻町の柏原(かしわばる)・恵良原(えらはる)・葎原(むくらはる)とともに豊後四原といわれた。古代よりの直入郡柏原郷で中世には四原と呼ばれていたようである。「大友興廃記」には四原の悪党と出ている。江戸期には岡藩領である。岡大豆の主産地であった。高度が高く畑作地帯であるので,年によって豊・凶作があって,百姓と藩とのトラブルもあった。安永7年7月10日大風雨の戸上村の組頭4名は被害状況について検見願を出した(中川史料集)。検見は行われたが,組頭の宇衛門・定衛門・甚左衛門は斬首の上梟首され,喜太郎は年少の故をもって追放となった。村人は梟首された所に供養の為に地蔵を立て,誰いうとなく首無地蔵と呼ばれた(大分の地蔵たち)。この頃より神社ごとに神楽(かぐら)座ができ,祭の行事に獅子舞や白熊(はぐま)が流行した。百姓の娯楽であるとともに統制と団結の手段となった。殿様より偉い神様に仕えることが藩政の批判に発展。藩は横山甚助を起用して,新法という生産を高め年貢を増す政策を強行。新法は計画のようには生産は上らず,百姓は搾取に苦しんだ。戸上村の直左衛門を中心に一揆の計画が進められていた。全藩にわたっての総決起である。文化8年11月18日夜突如として各神社より獅子舞の太鼓楽が鳴りはじめた。この太鼓を合図に18歳以上60歳までの男子は集合して,不参加の家があれば直に打毀すという申し合わせである。太鼓の鳴ったのは四原だけであった。高原の東端の戸の鼻という所で,篝火(かがりび)を燃やして意志を確かめ四道より進み,玉来町に集結して,城下町の入口の山手河原に19日未明に押出した。藩は銀札所を本陣としたが武装した百姓2,000人には手が出ず対峙。時間の経過とともに百姓勢は次第に膨れ上がり4,000名に達したという。正午になって藩は,百姓の新法を止め新税を廃すること,横山甚助以下の新法を推進した者を百姓に引き渡すこと,一揆の責任者を処分しないことなど21か条の要求を受けたが,さすがに重臣を百姓に引き渡すことはできず,横山は士分を放たれ永牢の処置となった。徳川300年の歴史の中で百姓が武士に対して全面勝利したのは四原一揆をもって嚆矢とすると評価されている。四原一揆を引き金として全国的に百姓の自覚が増したという(党民流説・百姓騒動記)。菅生原は江戸期の初めは大戸郷(ねぎごう)と呼ばれた。記紀には禰疑(ねぎ)山・禰疑(ねぎ)野がある。「ねぎ」とは神域のことで,菅生の清(すが)の所と古代は同意であろう。現在は国道57号が東西に貫通して新しい産業の高冷地野菜の栽培が盛んである。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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