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味の素
【あじのもと】


はじめは「味精」、そして「味の元」とも呼ばれていた

味の素」といえば、料理にさっとひと振りするだけでうま味が増す魔法の調味料である。手間をかけなくても出汁同じ役割をしてくれる「味の素」の登場は、画期的だったに違いない。しかし「味の素」として世間登場するまでには、長い道のりがあった。穀物酒類の販売店「瀧屋」を営んでいた、鈴木三郎助とその妻ナカは、日常販売仕事加えて様々な事業を手がけていた。南京米の輸入水産物仕入れ各地への販売菜種油魚油製造などで資産を増やしていった。ところが、経営安定したと思われた矢先に、三郎助はチフス感染し、急逝する。一八七五(明治八)年のことであった。そのため、妻ナカは、長男の泰助とともに店の経営継ぐことになる。泰助は、一四歳のときに浦賀町宮下食料品問屋加藤小兵商店入り見習いとして四年を過ごす。そして、一八八四(明治一七)年に葉山に戻って二代目三郎助を襲名し、「瀧屋」の経営従事することになった。「瀧屋」の経営はナカと妻のテルにまかせ、日本橋米穀取引所通い大規模な投資手を出すも、失敗遺産大半を失い、家屋まで抵当入れなくてはならなくなった。生活に窮した鈴木家では、生活費稼ぐために避暑客間貸しをはじめた。大日本製薬株式会社技師村田春齢がこの間貸しの客だった。村田は、鈴木家にヨード製造することをすすめた人だ。葉山海岸繁殖漂着する海藻を見たからである。村田助言によりナカは、海岸の「かじめ」を採取して焼き、お椀一杯ほどのヨード灰をつくった。村田はこれを検査し、ヨード含有量が多く良質物質であることを明らかにする。このヨード灰が、「味の素」の原型である。ナカとテルは、ヨード製造鈴木家の経済的危機救う決意し、事業をはじめることになった。二代目三郎助は、後にヨード製造販売興味持ちはじめ、営利事業として本格的企業化することになった。それから村田は、鈴木家のヨード製品大日本製薬納めさせるつもりでいたが、同社関係者下田ヨード製造着手するという事情があり、これらを断念した。しかし横浜薬品問屋友田嘉兵衛商店鈴木家のヨード製品買い入れ事業の本格化際して資金貸してくれたのである。そのおかげで、鈴木家のヨード製造立派企業化するに至った。当初新調味料の本格的製造に先がけて「味精」と名づけたが、甘精(サッカリン)、酒精アルコール)などに似ていることから改称。「味の元」が選ばれたが、さらに「味の素」と改称された。初代三郎助の妻ナカが、ヨード製造する事業に携わらなければ、今日の味の素」は生まれなかったかもしれない。




東京書籍
「雑学大全2」
JLogosID : 14820014