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若菜と子の日の松
【わかなとねのひのまつ】


早春の野で摘んだ野草を食べることは食習慣であると同時に、若草の生命力にあやかって健康と長寿を予祝する呪術(じゅじゅつ)的な行為でもあった。現在に受け継がれている正月七日の七草粥(ななくさがゆ)は、その名残である。
『万葉集』には春菜(「わかな」と読む説がある)という言い方も見られ、「明日よりは春菜摘まむと標(し)めし野に昨日も今日も雪は降りつつ」〈八・一四二七・山部赤人〉などとある。平安時代になるともっぱら若菜と呼ばれるようになり、『古今和歌集』に「君がため春の野に出(い)でて若菜摘むわが衣手(ころもで)に雪は降りつつ」〈春上・二一・光孝天皇〉(→きみがためはるののにいでて…〔〔和歌〕〕)とあるように、若菜摘みは春浅い野辺で行う催しとして定着した。「春日野の若菜摘みにや白妙の袖振りはへて人の行くらん」〈春上・紀貫之〉などの歌もあり、地名との取り合わせの類型も成立した。
一方、正月の初子(はつね)の日には、野山に出て小松を引き抜き、松にちなんで長寿を願う「子の日の遊び」が行われた。『拾遺和歌集』に「子の日する野辺に小松のなかりせば千代の例(ためし)に何を引かまし」〈春・二三・壬生忠岑〉などと詠まれている。「子の日」は「ねのび」と濁音でも読まれるが、小松の成長を示す「根延び」を意識しているのであろう。
平安時代中期には、初子の日に小松引きと若菜摘みを合わせて催すようになった。『後撰和歌集』に「松も引き若菜も摘まずなりぬるをいつしか桜早も咲かなむ」〈春上・五・藤原実頼〉とある。『源氏物語』若菜・上巻には、光源氏の四十歳の祝宴を、養女格の玉鬘(たまかずら)が正月の子の日に催して、若菜で祝う場面がある。この時、玉鬘が「若葉さす野辺の小松を引き連れてもとの岩根を祈る今日かな」と、光源氏が「小松原末の齢(よはひ)に引かれてや野辺の若菜も年をつむべき」と和歌を詠み交わし、光源氏は幼い子の末永い寿命にあやかって長寿を積もうと願っている。




東京書籍
「全訳古語辞典」
JLogosID : 5113519