無名抄
【むみょうしょう】

作者・成立
作者は鴨長明かものちょうめい(⇒主要作品解説「方丈記」)。 成立にはいろいろな説があるが、日野ひの 山に隠遁いんとんした承元二(一二〇八)年ごろから、亡くなる建保四(一二一六)年の間に書かれたと考えられる。作者長明は、この間、建暦元(一二一一)年に鎌倉に行き、鎌倉幕府三代将軍源実朝さねともと対談している。帰京後の建暦二(一二一二)年に『方丈記』を執筆し、その二、三年後には『発心集ほっしんしゅう』が成立したとみられる。これらと前後して『無名抄』も執筆されたのであろう。
内容・構成
歌論書。歌学的知識をまとめたものや体系的な理論書ではなく、筆のおもむくままに書かれた随筆的歌論である。長短約八十の章段から成り、和歌を作るときの心得や、作者の師である俊恵しゅんえの教訓、昔の歌人の旧跡、同時代の歌人の批評などが、さまざまなエピソードとともに記されている。 特に注目されるのは、近代歌躰事という章段である。この時代の歌壇は、俊恵など『古今和歌集』以来の伝統をくむ者と、俊成・定家など新風の和歌を詠む者の二派に分かれて対立していた。これに関して次のように記されている。 或人問云とひていはく、「このごろの人の歌ざま、二面に分かれたり。中ごろの体を執する人は今の世の歌をばすずろごとの様に思ひて、やや達磨宗だるましうなどいふ異名をつけてそしり嘲あざ ける。また、このごろ様を好む人は、中ごろの体をば、『俗に近し、見所なし』と嫌ふ。やや宗論の類たぐひにて、事切るべくもあらず。末学のため是非に惑ひぬべし。いかが心得べき」といふ。 これについて、長明は歌の歴史的変遷を述べて両者の歌風を比較している。これは俊恵の説を受け継ぎながら、俊成の影響も受け、自身の歌論を展開するものである。いわゆる幽玄論では、幽玄を言葉に現れない余情、姿に見えないようすと定義して、さまざまな比喩を用いて説明している。 また、俊成卿女しゅんぜいきょうのむすめや宮内くない卿の作歌のしかたや、源俊頼としよりと藤原基俊もととしの対立など、当時活躍した歌人をめぐるエピソードが生き生きと描かれた章段もあり、和歌の歴史を知るうえで重要である。説話文学としての評価も高い。
文体・特色
仮名序事という章段に、仮名の文章を書くときの心得として、できるだけ漢語を使わず、対句を多用しないことをあげているので、本書もその点を意識して書いたのであろう。 「俊恵云いはく」「或人云」など、他の人が言ったことや聞いたことを引用する章段が多いため、会話文や、引用を示す「とぞ」という文末表現が目立つ。先にあげた近代歌躰事の章段は、問答形式になっている。 また、和歌の第三句を腰の句、そこが悪い歌を腰折れと呼ぶなど、歌論特有の表現が見られる。

![]() | 東京書籍 「全訳古語辞典」 JLogosID : 5113646 |