イシカリ十三場所
【いしかりじゅうさんばしょ】

(近世)江戸期の場所名。西蝦夷地のうち。石狩川流域に設定された諸場所の総称。はじめ松前藩領,文化4年幕府領,文政4年再び松前藩領,安政2年からは再び幕府領,石狩川下流域の鮭漁に関する交易についての権利は,イシカリ場所という名称で藩主直領であったのに対して,本・支流の流域各地に設定された夏商いの利権(鮭塩引以外の干鮭・鷲の羽・熊皮・榀縄などの交易)は,いくつかの場所に分けられ,一部藩主直領とされたが,多くは,家臣への知行地として宛行われていた。この知行場所の給付は,寛文9年のシャクシャインの蜂起後の論功行賞として行われたのが最初かといわれる(石狩町誌)。元禄年間になると,伊別満多(イベツマタ)・遊張(ユウバリ)・シユマ満布(シユママフ)・沙津保呂(サツポロ,知行主は3名)・志古津(シコツ,知行主が南条安右衛門なのでシノロと思われる)・賀波多(カバタ)という地名が鳥屋(鷹などの狩場)のかたちの知行所として見られる(松前家臣支配所持名前)。享保年間では,この6か所に,はつしやふ・徒以石狩(ツイシカリ)を加えた8か所(松前東西地所附),元文年間では,松前藩主の直轄領のほか,知行主名が12名分あげられ(蝦夷商賈聞書),宝暦年間も12名があげられている(松前付届書留控/飛騨屋文書)。イシカリ十三ケ所,あるいは,十六ケ所という表記は,天明・寛政年間の史料から見られるが,必ずしも一定の場所名,場所数をあげているわけではない。天明年間の「北藩風土記」は,「イシカリ十三ケ所ノ部」としてカムヒコタンなど14か所をあげ(下カバタをおとしているようなので,これを入れると15か所),「松前随商録」は「石狩十六箇所之部」として15か所をあげている。寛政4年の「東西蝦夷地場所附」も「石狩拾六ケ所之内」と記しているが,11か所をあげている(下ツイシカリを書きおとしているらしい,知行主の松崎太次右衛門の名だけはあげている。藩主直領のカムヒコタン・トクヒラをあげていない)。同時期の「西蝦夷地分間」(天明6年~寛政初年)は,藩主直領のトクヒラ・ウシユシヘツ・シイヘツのほか,藩士知行の12か所をあげているが,イシカリ十三ケ所というようなまとめた表記はない。天明6年の「蝦夷草紙別録」も直領のトクヒラなど12か所をあげているが,やはり,まとめた表記はない。文化4年の「西蝦夷地日記」になると「イシカリ 運上家十三ケ所」として13か所の場所名・知行主名・請負人名などが記録されていて,以下の如くである。トクヒラ(藩主直領,請負人米屋孫兵衛,運上金100両),上ツヱシカリ(松前彦三郎,同前,60両),ハツシヤフ(酒井伊兵衛,同前,50両),下
カハタ(土屋高八,京屋勘次郎,40両),下ユウバリ(蠣崎佐兵衛,近江屋利八,50両),上カバタ(佐藤彦八,相野屋伊兵衛,120両),シマウフ(下国脇,米屋孫兵衛,45両),下ツイシカリ(松崎多門,直次郎,50両),下さつほろ(目谷安次郎,京極屋嘉兵衛,70両),上ユウハリ(松前鉄五郎,宮本弥八,47両),上サツポロ(南条郡平,浜屋甚七,70両),シノロ(高橋壮八,筑前屋清右衛門,50両),ナイホウ(藩主直領,梶浦屋吉平,25両)。この文化4年から西蝦夷地も幕府領となり,この諸場所の知行主もいなくなった。文政4年松前藩への復領となるが,藩士への給付は,すべて現米・現金となったので,諸場所とも藩主の権限のもと場所請負人に任されることになり,大商人がイシカリ場所・イシカリ十三場所を一括して請け負うようになると,場所の区分の意味も次第に減じてくる。天明~寛政年間頃,米屋孫兵衛がまとめて請け負っていた5か所(トクヒラ・シマウフ・上
ツヱシカリ・下ユウバリ・ハツシヤフ)が,「五ケ所組」(丁巳日誌)などといわれ,アイヌ人口がまとめて記録されたり(文化七年土人由来記は5か所あわせた数字のみ記し,1,178人としている),5か所のアイヌがまとまって下流域の漁に使役されたり,また,一緒に島松川の方へのぼって自用の干鮭のための漁をするというような5か所のなかでは,場所の区分に意味がないような状況もあったようである。松浦武四郎の日誌類は,この5か所を前出のうち下ユウバリでなく下ツイシカリとして記しているが,「東西蝦夷場所境取調書上」も,文化7年「土人由来記」も下ユウバリの方をあげており,場所請負人が米屋で共通していた前記の5か所が「五ケ所組」であって,下ツイシカリは誤記であろう。文政元年から安政4年まで続いた阿部屋村山伝兵衛(請負名は伝次郎)の請負いは,イシカリ場所・イシカリ十三場所を一括した請負いで,はじめは,イシカリ場所・イシカリ十三場所の運上金が各々別に定められていたが(文化12年2,250両・678両),天保2年からは一括して定められるようになる(再航蝦夷日誌)。天保12年1,000両,安政年間は1,000両(蝦夷租金)あるいは,1,500両(安政元年蝦夷地請負人運上金等)というような運上金額が知られる。ウリウ・カモイコタンより上流域は十三場所のうちではないので,上流域のアイヌは場所請負人とは関係なく「自分稼」をしていたのに,一括した請負になると,上流域のアイヌまで浜へ下げられ使役されるようになった(丁巳日誌)。また,「ウリウ・カモイコタンより上流域」は,イチヤンより上流域をさすとの説もある(戊午日誌)。請負いのあり方で,流域全体の様子が変えられていったのである。十三場所の地域的な区分は,ほとんど実体がなくなり,松浦武四郎の場所ごとのアイヌ「人別帳」の検討によれば,その記載は,ほとんど無意味なものになっていた。死亡者や他場所のものばかり多く記載され,しかも本来の居住地の場所は,しばしば無人の地となっていて,石狩川口の運上屋の周辺に集められ,雇小屋に連年,収容され使役されていたのである(丁巳日誌・戊午日誌)。このような事態が進むなかで,イシカリ十三場所は一定の場所名,一定の場所数(十三か所)で記録されるようになっている。文化4年の「西蝦夷地日記」のあげる13か所が,このあとの時期の史料では,一定して記される。文化7年「土人由来記」,文政5年「東西蝦夷地人別并収納高除金調子扣」や,松浦武四郎の「再航蝦夷日誌」は,前出の13か所をあげる。この13か所とは異なる場所名であげられているものでは,天明年間の「松前随商録」上シノロ・下シノロ・シツカリ(下ツイシカリか)・トヨヒラ,天明6年の「蝦夷草紙別録」チイカルシ・モマフシ,天明6年~寛政初年の「西蝦夷地分間」ツフカルイシがある。このうち,ツフカルイシ(チイカルシ)は,知行主が高橋家(平蔵)であることから,シノロの別名と思われるが,石狩川口から32里も上流にあるとされたり(西蝦夷地分間),またシノロが雨竜川口より上流の地域をさす場合もあったので(丁巳日誌・東西蝦夷場所境取調書上),ツフカルイシ=シノロが,下流域のシノロとは異なる地域(出稼ぎなどで関係があったか)に存在していたのかもしれない。モマフシは,知行主が小林家(甫左衛門)なのでナイホウ,あるいは,その近辺をさすものと思われる。「天保郷帳」には,ナイホ・モマニウシが見える。十三場所の産物については,干鮭が多く,上流域からは熊・狐・兎の皮,浜辺の地方では数の子・油というように上流域・下流域を区別して述べられることもあった(蝦夷商賈聞書)。天明年間の頃は,上流域のカムイコウタンを筆頭に全て同じ産物であるとして,鰊・干鮭・鱒・梠(榀)縄・椛皮・鷹・鷲之羽・熊胆などをあげている(松前随商録)。上流で鰊がとれるはずはないが,カムイコウタンのアイヌが浜辺まで下って鰊漁に使役されており(ヲタルナイやアツタへの出稼ぎにも使われていたようである),その漁獲物がカムイコウタンアイヌの交易品とされているのであろう。文化4年「西蝦夷地日記」で,十三場所全てに「鯡取図合船」があるように記されているのも同様のことと思われる。同日記は,「元場所」(川口部)のアイヌは,「川上八九十り」も離れたところに住んでいる者としている。この頃,各場所の運上屋も川口部に建てられ,各場所のアイヌを集めて,下流域の鮭漁や浜辺また他場所の鰊漁に使役していた。上サツポロ場所の運上屋は,川口部にあって田草川伝次郎らが宿泊した記録もある(西蝦夷地日記)。一括した請負いになると川口部の元小屋が中心となり,各漁場に「漁小屋」また他場所からの「出稼小屋」が置かれるようになっている(イシカリ御場所里数小名書上)。また,上流域の拠点として忠別川口(現在旭川市内)にチクベツブト番屋(大番屋)が設けられ,春~秋の間は,和人の番人が駐在していた(戊午日誌)。安政2年からの幕領期には,阿部屋の苛酷な場所経営が問題となり請負制は廃され,十三場所全体として箱館奉行の直轄とされた。明治2年石狩国石狩・札幌・樺戸・空知・夕張・雨竜・上川の各郡のうちとなる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7000520 |