大町
【おおまち】
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(近世~近代)江戸期~現在の町名。箱館(函館)市中の1町。函館山の北側の函館港に面した平坦地に位置する。町名の由来は,成立当時,他町に比較して町域が広大であったことによるという(函館地名考)。「安永種田日記」の天明2年の項に「箱館町に雪少々御座候,大町通候」と見えるのが初出か。寛政3年の「東蝦夷地道中日記」には箱館市中8町の1つとして見える。寛政10年高田屋嘉兵衛が支店を設置。翌11年沖ノ口番所が設置され,商業上の中心地となる。享和3年の当町の本家67・借家22,文化6年の家数261・人数283,文政3年の家数100・人数450,うち男224・女226(北海道温古雑識)。天保12年の家数129・人数643(箱館町々戸口其他)。松浦武四郎「初航蝦夷日誌」に「大町 役所の下坂より沖の口門迄也。問屋・小宿・諸商人并請負人等家作美々敷,又裏屋小屋ニは小商人并妓等有る也。并ニ長崎屋と申し而長崎俵物会所并俵物蔵等有。毎年江戸より御普請役壱人,長崎俵物方壱人出役し而,東部産物を皆此処に而相改積込候事」とあり,また,東の坂・中坂の上に浄土真宗浄玄寺,西の坂の上に浄土宗称名寺を記す。安政2年箱館が開港されると,奉行所用達で場所請負人でもある伊達林右衛門・栖原六右衛門宅を新銭引替所,同じく杉浦嘉七宅に接し産物会所,この他に交易所が設けられた(蝦夷実地検考録/函館市史史料1)。当所の東端の海面を埋立てた作事場を安政6年運上所として,万延元年に完成。産物会所を併設。同年西隣に外国人居留地も完成。この埋立地は,のちに仲浜町として分離する。安政6年重三郎が西洋料理店開業。文久元年江戸の飛脚問屋島屋が支店を設け,箱館~江戸間の定飛脚を開始(諸書付/函館商業史の一環)。元治元年新島襄が,福士成豊の助力によって外人居留地からアメリカ船ベルリン号に乗船,日本を脱出。慶応元年の家数217・人数897,うち男431・女466(村尾元長手録)。安政3年の函館沿革図では,基坂を起点に西へ1~4丁目が区画されている。明治2年職業別構成は,問屋9・小宿3・付船29・請負人1・荒物29・呉服3・米商4・用達1・仲買6・料理屋2・茶店2・医師1・薬種2・唐物1,その他(箱館大町家並絵図)。明治5年の大区小区制制定の際に,当町から大町上通りが分かれたと思われる。明治初年まで,「弁天の衆,大町の旦那」といわれ(函館町物語),問屋の旦那衆が多く住んでいた。明治5年郵便役所開局。翌6年電信分局開設。明治9年戸数183・人口1,280(管内村町別戸口表)。同12年の大火でほぼ全域が焼失。明治9年七軒町・喜楽町を編入し,同14年4丁目を弁天町に編入。同16年の戸数130・人口1,261(管内村町別戸口表/饒石叢書)。同年山田銀行開業,同24年閉鎖。明治16年第三十三国立銀行支店開業,同23年閉鎖。同27年米穀塩海産物取引所落成,同36年解散。明治30年戸数192・人口700(伊藤鋳之助文書)。同年函館馬車鉄道が軌道開設,大正2年路面電車に転換。明治32年函館区,大正11年函館市の町名となる。明治40年の大火で全焼。同43年の戸数83・人口627(函館区史)。大正4年相馬合名会社設立。世帯数・人口は,同9年319・1,781,昭和10年359・1,820,有業者総数352うち商業144・交通業82・工業59など(函館市職業別世帯分散状況調査書)。同30年の世帯数327・人口1,398。商業上の中心地が大門地区へ移動。同40年中浜町と富岡町・鍛冶町・西浜町・弁天町・大黒町の各一部を編入。この編入直前の世帯数346・人口1,254,編入後は754・2,511,就業者別人口は卸・小売業372,製造業230,サービス業201,運輸・通信業158など。同43年に函館税関が海岸町合同庁舎へ移転。跡地に海上自衛隊函館基地隊本部が移転。同50年の世帯数696・人口1,854。
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![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7001310 |