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乙忠部
【おっちゅうべ】


(近代)昭和22年~現在の枝幸(えさし)町の行政字名。もとは枝幸村大字礼文村の一部。地名はアイヌ語のオキトウンベツに由来し,「キト」つまり「行者にんにく」の多い沢と解されたり(北海道蝦夷語地名解),また,オチウウンベツで河口が波立つ川とも解される(枝幸町史)。江戸期には,ヲチシュンベ(蝦夷草紙)・オトチンベ(松前東西地理)・ヲチチンベ(西蝦夷地日記)・ヲチヽウンベ(再航蝦夷日誌)などと見えるが,これらには人家の記載は見られず,松浦武四郎「廻浦日記」に「ヲチウンヘ,小川。此所往昔十余軒有。近年迄五軒残りしが当時一軒もなし」と見えるだけであった。ペセトコマナイには無人の休憩所があり,明治期まで続いた。明治期になり礼文村と歌登(うたのぼり)村の境界は,当地のチカプトムシ(ノツカシマナイ)の岬であった。明治20年村上熊作なる者がニウシトマリで漁業と農耕に従事。同22年に駅逓がオチウベに開設された。翌23年には乙珍部に畠山某の漁場があったという(佐藤喜代治:北海道旅行記)。この頃駅逓と漁場1軒以外,村の施策はみられなかった。なお,乙忠部駅逓所の開設年代には3説があり,明治22年のほか同26年または同36年の記録がある。同36年の場合は取扱人は清水喜一郎である。紋別方面との連絡上夙に開設され,数回改廃されたと推定される。明治25年当地に3戸ほど来住者があり,翌26年礼文駅逓所開設とともに15~16戸の集落を形成するに至る。同27年にはチカプトムシの昔からの漁場と,オレタンラプに駅逓のほか2戸と記録され,オツチユーべには旅人宿・小商人・説教所のほか20戸ほどあった(殖民状況報文北見国)。同31年枝幸市街についで乙忠部市街も区画割の測量が実施された。同33年に簡易教育所開設,15名の児童が就学した。この頃より人口が急激に増加。大正2年頃の木材景気により,木材1万石産出。同5年礼文原野に農民36戸・159人が入植。同年乙忠部郵便局が開設され,また12月に大時化があり,缶詰工場が流失した。同6年簡易教育所が小学校に昇格。昭和23年樺太(からふと)(サハリン)からの引揚者が入植。同42年農業用上水道完成,同43年には乙忠部漁港が着工される。同52年の字山臼との間に大規模草地が完成し,これを機能的に活動させるミルクプラントができた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7001564