協和
【きょうわ】

(近代)昭和13年~現在の行政字名。はじめ端野(たんの)村,昭和36年からは端野町の行政字。もとは端野村の一部,チャシポコマナイ・野付牛原野。明治37年西川貞次郎ら最初の開拓移民が入植して以後,移住者が増加。特に平地の屯田兵村が何度も洪水に見舞われたため,除隊後高台地の当地付近に多数移住する者が出た。当地は主に小作制の大牧場によって開墾され,牧場の多くは昭和期に入り開放,大半が自作農となる。当地付近は大正6年野付牛町川向2部と称し,昭和3年区制施行により川向2区と呼称。端野市街地へは常呂(ところ)川を渡らねばならず,大正11年東17号線に架橋。のち流失が続いたため,昭和7年中央橋竣工。同28年永久橋化され,同47年東16号線に移設竣工。昭和2年川向第二教授場設置,同10年協和尋常小学校に昇格。大正初期,国鉄網走線(現石北本線)の開通後,造材ブームとなり山子と呼ばれる大量の造材人夫が入地,山の神を祀ったのが協和神社の始まり。明治期~大正期の作付けはハッカが主で,第1次大戦時の雑穀ブームではエンドウが全耕地の30%を占めた。大正末期から造田が進むが,昭和初期の冷害凶作の打撃は大きかった。昭和11年60頭の乳牛を導入,寒地農業を目指す。同21年電灯がともり,同26年中学校設置。同27年の世帯数117・人口812。同29年の作付けはバレイショ・ビート・豆類・米で,うち豆類は62%に及ぶ。同37年,協和中学校は端野中学校に統合。昭和30年後半から農業協同化が進められ,同34年三好協同農園,同36年山内協同農園・旭協同農園・新生農園・栄農園が組織され,全戸数の3割にあたる26戸が参加。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7002639 |