100辞書・辞典一括検索

JLogos

27

志文町
【しぶんちょう】


(近代)昭和37年~現在の岩見沢市の町名。もとは岩見沢市の一部,南6線・南7線・志文・幌向原野・幌向および国有地など。地名の由来は,アイヌ語のシュプンペッ(うぐい・川の意)による(岩見沢市史)。昭和35年の世帯数279・人口1,453。明治22年北海道炭礦鉄道岩見沢駅から夕張炭山に通ずる旧夕張道路が,当地を経て幌向川(旧渡橋)まで開削され,志文原野開拓の端緒となった。同24年三浦伊次郎が入地し,志文市街の開墾を始める。同25年辻村直四郎が開墾を始め,同27年には小樽の金子元三郎から213万坪の土地貸下げを受け辻村農場を経営した。明治25年北海道炭礦鉄道室蘭線岩見沢~室蘭間開通,同35年志文停車場開設。明治32年志文道路(岩見沢~志文間),万字道路(志文~万字方面)が開通。同36年志文郵便取扱所,同39年巡査駐在所設置。同40年三井物産が滝ノ上地区の材木搬出のため志文―上志文―朝日―栗沢町美流渡(みると)間に軽便馬車軌道(通称馬鉄)を敷設したが,同軌道は大正2年廃止された。同3年国鉄万字軽便線(のち万字線,昭和60年廃止)志文~万字炭山間開通,志文駅を中心に市街が形成された。水田化に関しては,志文灌漑溝組合(現志文土地改良区)が幌向川から導水した灌漑溝を完成して150町の水田化に成功したのをはじめ,大正12年に金志土功組合(現金志土地改良区)が灌漑用の貯水池(金志池)を,昭和4年北海土功組合(現北海土地改良区)が北海灌漑溝を完成して,この地域一帯は水田地帯となった。市街地に同48年ふじ団地,同51年南空知流通団地などが造成され,都市化が急速に進んだ。昭和49年市街地が分離して,志文本町1条~志文本町5条となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7003720